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白鳳時代後半に創建され、平安時代末までに廃寺になったと見られている伽藍跡に残っている県下最大の塔心礎。
1441年、芳井町天神山に建立された重玄寺は、度重なる火災により全焼し、昭和49年に現在の場所へ移築されました。一説には画聖・雪舟が没した場所であるとも言われており、今は墓所と土蔵を残すだけとなった重玄寺跡地ですが、重玄寺跡と雪舟終焉の地を示す石碑、また…
飛鳥時代に創建された寺院跡で、塔の心礎は往時の位置に現存しています。出土した軒丸瓦は2種類が確認されていて、第1類は県内最古の飛鳥様式で、第2類は吉備式と呼ばれるものです。
岡山藩主の池田光政が領内の神社11,003社を601社にまとめ、正徳2年(1712)次の藩主である綱政がこのうち5社だけを残して、596社をここに移して合祀した宮跡です。
藤原基房は関白藤原忠道に二男で、1172(承安2)年に関白になりましたが、平清盛と対立し1179(治承3)年に関白を罷免されこの地に配流されました。浄土寺の西側に関白屋敷があったと伝えられており、岡山藩主池田継政が建立した碑があります。
長径2m、短径1.5mの花崗岩自然石の上面に直径70cm、深さ17cmの円柱穴を掘り、さらにその中底に径16cmの小穴を備えた、奈良時代の層塔の心礎を残しています。
岡山藩主の池田光政が藩士の子弟教育のために設けた学校跡。昭和20年(1945)の岡山空襲で講堂や校門等の建物群は全焼し、現在では泮池だけが残っています。
全長96mの前方後円墳です。長持形石棺があり、副葬品として漢式鏡、直刀、環頭太刀、銅鏃、鉄鏃など多数が出土しています。

明治24年、山陽本線開通に伴ってできたもので、土木学会推奨の土木遺産に認定されています。場所は、市立三石保育園東側にあります。

白鳳時代創建の寺院跡。主要伽藍は、塔を中心に東側に金堂、西側に講堂を配した独特のもので、元禄4(1691)年に編さんされた美作地域の地誌「作陽誌」にも記載されている。

一の口水門は、水門の構造などに当時の遺構が良好に残されており、17世紀後半~20世紀初めまで続いた高瀬舟による物資輸送の事を考えるうえで重要な史跡です。

木造二階建の寄棟造、桟瓦葺の大型の洋風住宅で、明治24年(1891)に建てられました。1・2階とも正面に半円形のアーチを置き、扉口を設ける。円柱が並ぶ吹き抜けのバルコニーは、17~18世紀に西欧諸国の植民地時代の建築(コロニアル様式)を模しており、異国情緒をよ…

4世紀後半ごろの築造。標高180mの丘陵部先端に位置する全長59.1m前方後円墳です。古墳時代の美作西部地域における重要な古墳です。
標高340mの山頂に築かれた山城で、北東を大手、南を搦手とし、南北に細長い曲輪を連ねています。東西12m、南北20mの平坦部の西側と北側に石垣が築かれています。

備前・備中の国境に近い旧山陽道にり、一里塚の様子をよく示しています。道路を挟んで両側に塚があり、北塚に黒松、南塚に榎の巨木がありましたが、枯れたため今は若木が植えられています。
備中成羽藩成立時に入封した山崎家治の次男で、讃岐国丸亀から旗本として戻った山崎豊治が、菩提寺として建立した桂厳寺境内には、豊治以降の歴代領主の墓石や供養塔が整然と並ぶ。また、本堂には御霊屋も併設されるなど,近世大名墓の形態を示す貴重な史跡である。
阪谷朗廬が青少年の人材育成のために開いた漢学塾跡
嘉永4年(1851年)に漢学者の阪谷朗廬が開いた「桜渓塾」を当時のまま保存整備している史跡公園です。「朗廬阪谷先生垂帷跡」の記念碑に刻まれた題字は、渋沢栄一が書いた文字。裏側に彫られた碑文の書も栄一によるものです。

室町時代から江戸時代にかけて、この地の備前焼の同業者が共同で使用した大規模な窯のひとつです。忌部神社の西の山麓に窯跡の位置を記す碑があります。

町指定の天然記念物で、推定樹齢400年とされています。一本杉の根元には、道行人々の安全を願う『道祖神』が祭られています。
1851年母の看護の為に帰郷した学者阪谷朗廬(ろうろ)が若者の育成を目指して開いた漢学塾の跡地。現在では、記念碑があります。
岡山県下初の古墳公園
駐車場、トイレ、屋根付き休憩スペースを完備する、岡山県内初の古墳公園です。公園内の3基と南西に離れて所在する1基の計4基から成る、川戸古墳群。中でも、2号墳は美作地方最大級の横穴式石室をもつ方墳であり、類例の少ない方墳という墳形、この地域で最大規模の石…
備中高松城水攻めの前哨戦、加藤清正一番槍の高名で有名な城
備中高松城水攻めの前哨戦、加藤清正一番槍の高名で有名な城。足守川東岸にある標高40mほどの独立丘陵上に位置し、丘陵全てを城郭に利用していたと考えられる。最上段に本丸跡があり、城地の名残をよくとどめている。二の丸・三の丸跡は畑地となっている。
丘陵の斜面を整地して造営された下道氏の墓地。ここから和銅元年(708年)の銘文のある銅製骨蔵器等が発見され、奈良時代の墓制を知ることができる貴重な遺跡とされています。
縄文から弥生時代の遺跡。特に縄文晩期にトチ、ドングリなどの食糧を貯蔵していた穴が残されており、当時の生活を知る貴重な遺跡として知られています。
全長85m、史跡両宮山古墳が作られた後の5世紀末の前方後円墳です。納められていた石棺から、古墳の名前の由来となった大量の朱の他に、銅鏡、玉類、鉄器類などが見つかりました。周辺には両宮山古墳をはじめ、和田茶臼山古墳、森山古墳、廻り山古墳、小山古墳などがあ…
土蔵造二階建で、壁の大部分は海鼠壁として特徴ある外見を見せています。土蔵は、勝間田宿旧脇本陣の建造物として残された唯一の遺構で、参勤交代の要衝でもあった宿場町の景観を今に伝える建造物として貴重なものです。

弥生時代中期の住居が復元された大小5つの住居跡や作業所跡などがあります。隣接する弥生の里文化センターと合わせ見学ができます。

横穴式石室を持つ3基の後期古墳と奈良時代の火葬墓からなる墳墓群で、日本の葬制、墓制を知るうえで貴重な遺構です。

中和村との境界に近い山中にある江戸末期から明治20年代にかけて稼動した製鉄遺構。山内にはタタラ跡や作業小屋跡など一連の遺構がよく残っています。

風格漂う島の有力者の邸宅と樹齢約250年の巨木
平安時代の末期から真鍋島の有力者として栄えてきた真鍋家の旧邸宅です。明治初期に建てられた木造家屋の主屋は国の登録文化財に指定されており、書院造りの座敷を有します。軒先には岡山県内では珍しい樹木「ホルトノキ」があり、樹齢約250年。ホルトノキは熱帯~亜…

昭和52年墓地造成工事中に発見され、53年に岡山県教育委員会が発掘調査をしました。5世紀初頭頃の前方後方墳で全長35m、前方部と後方部にそれぞれ箱式石棺を持ち、そのどちらにも2体の被葬者がほとんど完全な形でうちちがいに葬られており、後方部からは径12cmのほう…
