観光スポット
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町指定の天然記念物で、推定樹齢400年とされています。一本杉の根元には、道行人々の安全を願う『道祖神』が祭られています。
箸立天満宮境内にある御神木「伊吹ヒバ」は、推定樹齢800年から1,000年といわれ、858年(天安2年)に菅原道真が、長岡庄を経て高田庄へ旅する途中立ち寄った際に、昼食に使った箸を立てたものが育ったと伝えられています。合格祈願の天神様として知られ、受験シーズン…

室町時代から江戸時代にかけて、この地の備前焼の同業者が共同で使用した大規模な窯のひとつです。忌部神社の西の山麓に窯跡の位置を記す碑があります。

備中松山藩儒・山田方谷(1805~1877)の功績・遺徳を末永く顕彰するため、時の上房郡教育会の拠出金により造られた小公園。明治43年(1910)5月に完成しました。山田方谷は、幕末の藩政改革などに貢献した陽明学者。園内には、三島中州撰文の方谷園記念碑、方谷山田…

一の口水門は、水門の構造などに当時の遺構が良好に残されており、17世紀後半~20世紀初めまで続いた高瀬舟による物資輸送の事を考えるうえで重要な史跡です。

平氏打倒を謀った「鹿ヶ谷」の密議が露見し、平清盛によって備前・備中境の有木の別所に流された大納言の藤原成親の配所跡と伝えられ、高麗寺の山門跡の礎石や成親の墓などが残っています。
閑谷学校創建時の瓦を焼くために設けられた窯跡です。窯は全長約9mほどの小窯2基と考えられています。のちにはこの窯を利用して祭器、茶器、細工物などの閑谷焼を焼いていました。現在は一部が宅地となっており、僅かに残る窯の側壁などに往時の面影を見出すことがで…
明治19(1886)年に生まれた利玄は足守藩時代最後の藩主を父にもつ歌人です。青年期から短歌革新運動に力を注ぎ白樺派の中心作家として活躍し、口語、俗語なども大胆に取り入れた写実的で平易な「利玄調」の歌風を完成し、歌壇に新風を巻き起こすとともに、明治大正の…

6世紀の後半に造られた備中地域最後の前方後円墳
6世紀後半に築造された全長約45mの前方後円墳。後円部のほぼ中央部に巨大な花崗岩を積み上げて築いた全長約14mの横穴式石室が設けられており、浪形岩製の家形石棺が納められています。
遠藤山の頂上にある山城で、本丸の石垣がよく保存されている。幾度か城主がかわって、最後は宇喜多氏の家臣である遠藤河内が城主を務めたが、関ヶ原の役後に廃城となった。

美作河井駅~知和駅間に架かる石造りの鉄橋で、その橋を通る列車との風景は鉄道ファンにとって絶好の撮影スポットです。

吉井川近くの台地上に所在する古代寺院。主要伽藍が判明し、遺構の残存状況は良好である。出土した瓦から中央との強い関係が想定され、古代美作国の政治情勢を示す上でも重要である。
明治時代に数多くの詩を発表し、大正時代以降は随筆の分野で多数の読者を魅了した薄田泣菫の家には、彼の詩集のほか、交友のあった芥川龍之介や与謝野晶子などの文人からの資料も展示されています。

楠戸家住宅は東町にあり、「はしまや」の屋号を持つ明治2年創業の呉服店。現在の店構えは明治中期に整えられたとされていて、主屋二階の漆喰を塗り込めた「虫籠窓(むしこまど)」は特徴的な意匠です。楠戸家住宅は、主屋をはじめ米蔵・炭蔵などが平成8年に登録文化財…

地下に眠る遺跡と県出身アスリートの資料館
岡山県総合グラウンドの地下には、縄文時代から近代にかけての複合遺跡である津島遺跡が眠っています。昭和46年に一部が国指定史跡に指定されました。さらにその後の発掘調査の結果を受けて、平成14年に史跡の範囲が拡大され、現在に至っています。発掘調査で出土した…

大谷1号墳は大谷・定古墳群のなかでも早くから注目され、調査研究が行われた古墳です。3段の墳丘と前面に2段の基壇をもつ、5段築成の方墳という全国的にもあまり例のないもので、規模は東西で22.7m、南北で16.2m、高さは1段目から墳頂まで8mを測ります。石室は両袖式…

昭和24年建設の現役木造校舎中学校
笠岡諸島の真鍋島にある中学校の木造校舎。昭和24年に建設された木造校舎は今でも現役です。懐かしい佇まいを見学に訪れる人も多く、観光スポットとして知られています。趣のある外観は映画「瀬戸内少年野球団」のロケ地としても使われました。

戦国時代、備前松田氏の本城として整備
戦国時代に備前松田氏の本城として整備されたと伝わっています。縄張りは県下の山城の中でも1~2番目に挙げられる大規模なものです。江戸時代初期の元和元年(1615)に幕府の命令で壊されましたが、本丸跡付近には井戸が残っており、「天主の井戸」は直径約8m、深さ約…

福山西北に独立した高さ164mの小山山頂部分にあります。東西の郭跡や,堀切・土塁状の遺構が見られます。鎌倉時代の終わり頃、備中の豪族 庄資房が初めて築城したと伝えられますが、室町時代中期に細川氏の守護代石川氏が約150年にわたって居城していたとみられてい…
出雲往来の一里塚として津山藩初代藩主の森忠政によって築造されたもので、県下に現存する数少ない一里塚として県指定文化財に指定されています。
丘陵の斜面を整地して造営された下道氏の墓地。ここから和銅元年(708年)の銘文のある銅製骨蔵器等が発見され、奈良時代の墓制を知ることができる貴重な遺跡とされています。
旧三浦家別邸。明和元年(1764年)、三河国西尾より移封になり勝山領主となった三浦氏は、明治2年、大政奉還により10代、107年間の歴史に幕を下ろしました。歴代当主は城山の麓(現在の市役所あたり)に屋敷を構えていたものの、城地・建物などはすべて国有となったた…

備前・備中の国境に近い旧山陽道にり、一里塚の様子をよく示しています。道路を挟んで両側に塚があり、北塚に黒松、南塚に榎の巨木がありましたが、枯れたため今は若木が植えられています。
江戸中期に建築された(およそ300年前の)三間取り広間型の農家を移築したもので国の重要文化財に指定されています。

備中国分寺の東約600mに位置し、現在は松林の中に建物の礎石や築地塀の痕跡が残り、往時をしのぶことができます。天平13年(741年)の国分寺・国分尼寺造立の詔を機に建立されたと考えられています。

吉備高原の南端に位置する、標高372.7mの山頂に築かれた山城です。 平安時代、この一帯は山岳仏教の霊場として栄え、多数の径塚が築かれたことから、径山城と呼ばれています。
弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての墳墓群で、箱式石棺・土壙墓・特殊器台棺等多様な埋葬を伴う集団墓と、前方後円墳状の墳丘墓とから成り立っています。集団墓から発見された特殊器台から、古墳時代の円筒埴輪の起源が特殊器台から変化したことも明らかになりま…
多数の遺構と史跡が残る絶景眺望の山城跡
備中杉山城跡の杉山(別名:要害山、標高:226m)は里山づくり活動によって山頂及び遺構場所まで階段が整備されているので中世の山城跡を散策できます。山頂に主郭(本丸)を構え、南北約350mの連郭式山城で要害山と呼ばれるように尾根を除いて険しい谷が続いています…

牛窓湾を廻る5基の大型前方後円墳の一つで、湾の西端の丘陵上にあり、墳長約55m。円筒埴輪その他副葬品が多数出土しています。
城の北部分にある登り土塁などは戦国時代末期に見られる技法の一つです。16世紀末まで存在しました。三星城跡のある「三星山」には、毎年8月と12月中旬~1月中旬まで「天」という文字を点灯しています。
文久3年(1863)に1万石に加増され、旗本から大名となり、陣屋を新たに築きました。しかし、慶応2年(1866)の倉敷浅尾騒動により襲撃を受け、焼失。
白鳳時代創建の寺院跡。主要伽藍は、塔を中心に東側に金堂、西側に講堂を配した独特のもので、元禄4(1691)年に編さんされた美作地域の地誌「作陽誌」にも記載されている。

1185年2月19日、四国屋島の合戦で弱冠17歳の那須与一は、扇の的を見事一矢で射落とした軍功により備中荏原荘など5ヵ所の領地を賜りました。この墓は古くから扇の的一射必中の故事にあやかって願い事がかなうと伝えられてきました。近頃、特に高校・大学受験の合格を祈…
鴨方藩の庄屋を世襲し油商等を営んだ家で、藩主の宿泊所や文化人の交流の場として使われた由緒ある町家です。建築年代は1687年に修理をしたという棟札から300年以上を経ており、県内に残る江戸前期の最古の町家であると同時に全国的にも最初期のものです。現在はかも…

縄文から弥生時代の遺跡。特に縄文晩期にトチ、ドングリなどの食糧を貯蔵していた穴が残されており、当時の生活を知る貴重な遺跡として知られています。
下津井港の背後にある標高89メートルの城山跡です。春には約300本のソメイヨシノやヤマザクラが目を愉しませてくれます。

美作地域の代表的な中世山城遺構。嘉吉元(1441)年に山名教清が築城したもので、戦国時代の戦火で天正18(1590)年に焼失、以後再建されることはなかった。

昭和52年墓地造成工事中に発見され、53年に岡山県教育委員会が発掘調査をしました。5世紀初頭頃の前方後方墳で全長35m、前方部と後方部にそれぞれ箱式石棺を持ち、そのどちらにも2体の被葬者がほとんど完全な形でうちちがいに葬られており、後方部からは径12cmのほう…

蒜山高原の中央部に16基の円墳があり、代表的な4基を「四ツ塚」と呼びます。その1号墳の石室は片袖式で、天井と壁面に朱を塗り、底部には石と木炭を敷いて水抜きの装置が設けられていました。
貴族の対立や疫病や災害の危機を仏教の力で鎮め護ろうと、天平13(741)年、聖武天皇の発願(ほつがん)により全国に建てられた国分寺のひとつです。発掘調査により、南北約190メートル、東西約175メートルの寺域に、南門・中門・金堂・講堂・僧房が一直線に並び、南…
