観光スポット
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直径約2.5m、高さが18mあり、葉が一年中黄金色をしている珍しい杉です。推定樹齢は180年ですが、突然変異で葉緑素を失って葉黄素のみとなってしまい、葉が黄金色となりました。岡山県の天然記念物に指定されています。

鴨方藩の庄屋を世襲し油商等を営んだ家で、藩主の宿泊所や文化人の交流の場として使われた由緒ある町家です。建築年代は1687年に修理をしたという棟札から300年以上を経ており、県内に残る江戸前期の最古の町家であると同時に全国的にも最初期のものです。現在はかも…

1185年2月19日、四国屋島の合戦で弱冠17歳の那須与一は、扇の的を見事一矢で射落とした軍功により備中荏原荘など5ヵ所の領地を賜りました。この墓は古くから扇の的一射必中の故事にあやかって願い事がかなうと伝えられてきました。近頃、特に高校・大学受験の合格を祈…
美作地域の代表的な中世山城遺構
美作地域の代表的な中世山城遺構。嘉吉元(1441)年に山名教清が築城したもので、戦国時代の戦火で天正18(1590)年に焼失、以後再建されることはなかった。

出雲街道勝間田宿場には諸藩の参勤交代に当って、津山藩主が専用としていた下山本陣と松江・勝山の藩主などが宿泊した木村本陣(出雲本陣)がありました。現在は下山本陣の一部が残っていたものを改修保存し、開放しています。

牛窓港背後の鹿歩山(海抜約90m)に築かれた全長約84mの前方後円墳。古墳時代中期後半に築造されたもの。円筒埴輪その他副葬品が多数出土している。

別名:斉田城、才田城(市指定史跡)佐井田城の築城年代は定かではありませんが、永正14年頃までに植木秀長によって築かれたとされています。永禄11年、岡山城主宇喜多直家が佐井田城を攻撃し、植木氏は宇喜多氏の軍門に。その後の戦乱を経て、天正8年に植木秀資が佐…
昭和24年建設の現役木造校舎中学校
笠岡諸島の真鍋島にある中学校の木造校舎。昭和24年に建設された木造校舎は今でも現役です。懐かしい佇まいを見学に訪れる人も多く、観光スポットとして知られています。趣のある外観は映画「瀬戸内少年野球団」のロケ地としても使われました。

吉備高原の南端に位置する、標高372.7mの山頂に築かれた山城です。 平安時代、この一帯は山岳仏教の霊場として栄え、多数の径塚が築かれたことから、径山城と呼ばれています。
旧三浦家別邸。明和元年(1764年)、三河国西尾より移封になり勝山領主となった三浦氏は、明治2年、大政奉還により10代、107年間の歴史に幕を下ろしました。歴代当主は城山の麓(現在の市役所あたり)に屋敷を構えていたものの、城地・建物などはすべて国有となったた…

閑谷学校創建時の瓦を焼くために設けられた窯跡です。窯は全長約9mほどの小窯2基と考えられています。のちにはこの窯を利用して祭器、茶器、細工物などの閑谷焼を焼いていました。現在は一部が宅地となっており、僅かに残る窯の側壁などに往時の面影を見出すことがで…
県下では珍しい扇の縄と呼ばれる型式で、城郭は扇を広げたように配置され、四段にわたって構築されています。築城時期は不明ですが、南北朝時代に今川氏、後に上田氏が城主となりました。天正3年(1574)に毛利氏の城攻めを受けて落城し、その後江戸時代初期に廃城と…
明治時代に数多くの詩を発表し、大正時代以降は随筆の分野で多数の読者を魅了した薄田泣菫の家には、彼の詩集のほか、交友のあった芥川龍之介や与謝野晶子などの文人からの資料も展示されています。

戦国時代にはこの城を中心に、松田氏・宇喜多氏・毛利氏などによって激烈な争奪戦が繰り広げられた。遺構は、山頂の本丸、二の丸、三の丸の主要な郭をはじめ、石垣、堀切等が確認されている。
弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての墳墓群で、箱式石棺・土壙墓・特殊器台棺等多様な埋葬を伴う集団墓と、前方後円墳状の墳丘墓とから成り立っています。集団墓から発見された特殊器台から、古墳時代の円筒埴輪の起源が特殊器台から変化したことも明らかになりま…
5世紀ごろ築造の全長140mの大型前方後円墳。浦間茶臼山古墳と並ぶ初期の大型古墳の代表的なものです。

山田方谷が隠棲の後に立てた小庵で、外祖父母を祀る持仏堂と3畳の仏間、3畳の床の間を中心とした平屋の簡素な建物です。県の文化財史跡に指定されています。

尼子氏に従って美作に入った草苅氏が天文2(1533)年に築城。城郭の範囲は、東西1.6km、南北0.5kmで、県内最大級の規模。天正12(1584)年に草苅氏が退城するまで約50年間一度も落城しなかったという。石垣、土塁、堀切等の遺構が確認される。

東アジア情勢が緊迫した7世紀頃に築造されたと推定されています。発掘調査の結果、土塁線や一の木戸等の水門、石塁構造が確認されています。
明治以前の乱掘によって石室は失われ、墳丘は変形しているが、もとは横穴式石室を持つ25mほどの円墳か方墳だったと考えられています。組み合わせ式の家形石棺があります。
商業で栄えた林野地区の蔵を活用
商業のまちとして栄えた時代の代表的な建物として、当時の文化や歴史を今に伝える地域の文化施設です。外側は風情のあるなまこ壁、内側は松の梁が剥き出しにかかるしっかりとした造りで、米倉として使われていた当時のまま温度が一定に保たれるなど、先人の知恵が詰ま…
津山市街地の西方の丘陵上に並んだ数基の古墳群を呼ぶ。最高所には全長約80mの前方後円墳の胴塚、南に下がって直径約40mの蛇塚と同規模の耳塚の円墳が続いている。古墳時代中期のもの。

治承・寿永の乱の際、平氏が源氏に勝利した「水島の合戦」の記念碑。水玉ブリッジライン源平大橋(玉島大橋)西側に建てられています。


白鳳時代に創建された寺院跡で、賀陽氏の氏寺であったと考えられています。発掘調査によって、塔などの伽藍配置の一部は明らかにまりましたが、全容は未解明です。
箸立天満宮境内にある御神木「伊吹ヒバ」は、推定樹齢800年から1,000年といわれ、858年(天安2年)に菅原道真が、長岡庄を経て高田庄へ旅する途中立ち寄った際に、昼食に使った箸を立てたものが育ったと伝えられています。合格祈願の天神様として知られ、受験シーズン…

室町時代から江戸時代にかけて備前焼の同業者が共同で使用した大規模な窯の一つです。伊部の西方、蕃山の山麓に位置し、窯跡を伝える記念碑があります。

文久3年(1863)に1万石に加増され、旗本から大名となり、陣屋を新たに築きました。しかし、慶応2年(1866)の倉敷浅尾騒動により襲撃を受け、焼失。
鎌倉時代の関所があったという峠道
播磨(兵庫)と美作を結ぶ古道の峠です。鎌倉時代には関所が置かれており、後醍醐天皇が隠岐に流される際もこの峠を通ったとされています。
吉備の方墳のなかでは最大級
旧山陽道を挟んで作山古墳の500mほど南にある古墳です。36x38mの規模をもち、吉備の方墳のなかでは最大級にはいります。埴輪などから中期前葉の築造が考えられています。
備中松山藩儒・山田方谷(1805~1877)の功績・遺徳を末永く顕彰するため、時の上房郡教育会の拠出金により造られた小公園。明治43年(1910)5月に完成しました。山田方谷は、幕末の藩政改革などに貢献した陽明学者。園内には、三島中州撰文の方谷園記念碑、方谷山田…

江戸中期に建築された(およそ300年前の)三間取り広間型の農家を移築したもので国の重要文化財に指定されています。

約48mの前方後方墳で、かつて三角縁神獣鏡11面を含む合計13面の中国鏡が掘り出されています。また、のちの発掘調査によって銅鏡以外の副葬品や葬送儀礼に用いた壺形土器なども明らかになっています。葺石の遺存状態がよく、今も段築成があることや撥形を呈する前方部…
牛窓湾を廻る5基の大型前方後円墳の一つで、湾の西端の丘陵上にあり、墳長約55m。円筒埴輪その他副葬品が多数出土しています。
大正12年、作備線(現在の姫新線)に建てられました。プラットホームや階段は大正時代の面影を残しています。

美作中心部の丘陵上に存在する。日上天王山古墳は、全長56.9mの美作最古の前方後円墳の一つで、竪穴式石槨、葺石、二重口縁の壺形土器が確認されている。日上畝山古墳群は大半が5世紀後半から6世紀前半に築造された、円墳・方墳56基が現存する古式群集墳である。
津山市街の北西にある神楽尾城跡は、山頂の本丸から東側に平屋城、南東に津山城、南西に嵯峨山城が望めます。

楠戸家住宅は東町にあり、「はしまや」の屋号を持つ明治2年創業の呉服店。現在の店構えは明治中期に整えられたとされていて、主屋二階の漆喰を塗り込めた「虫籠窓(むしこまど)」は特徴的な意匠です。楠戸家住宅は、主屋をはじめ米蔵・炭蔵などが平成8年に登録文化財…
