備前焼のふるさと「伊部南大窯跡」。巨大な窯と物原は唯一無二の光景!(備前市)

備前焼の産地として知られる備前市の伊部(いんべ)には、「備前陶器窯跡」という中世から近世に使用された窯(かま)の史跡がいくつか残されています。そのなかでも「伊部南大窯跡」は室町時代から江戸時代まで使用された国内最大級の窯跡に加えて、物原(ものはら)と呼ばれる廃棄された陶器の山が独特の景観を作り出しています。今回はこの「伊部南大窯跡」をクローズアップします。

掲載日:2025年05月26日
  • ライター:田中シンペイ
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「伊部南大窯跡」とは

JR伊部駅から南へ徒歩5分ほどの場所に「伊部南大窯跡」があります。おもに室町時代から江戸時代にかけて使用された備前焼の窯の跡です。「大窯(おおがま)」とは、複数の製作者が共同で運用していた大規模な窯のことです。
原始的な土器は、地面に穴を掘り、そこに薪を積んで焼いていました。この方法ではあまり高温にならないため、土器の強度は低く、大量生産もできませんでした。古墳時代の中期頃に大陸から「穴窯(あながま)」という高温で効率的に焼く技術が伝わり、それを発展させ大型化したものが「大窯(おおがま)」です。山の斜面などを利用して細長い窯をつくり、下で薪を燃やすと高温になった空気が上へ登っていくという仕組みです。窯の下半分は地面を掘り下げ、上半分には柱で支えた覆いを設けてトンネル状の構造にしていたと考えられます。
現在は窯の上部は失われて、掘り下げられた下部が痕跡として残されています。大きなものは全長50m、幅5mにも及び、一度に3万個以上の陶器を焼くことができたそうです。
榧原山(かやはらさん)のふもと一帯が国の史跡に指定されていて、その域内にいくつもの大窯跡を見ることができます。また、伊部には「南」以外に「北」と「西」にも大窯跡があります。

「物原(ものはら)」とは

あまり聞きなれない言葉ですが、「物原(ものはら)」とは、焼きあがった陶器の不良品や、匣鉢(さや/こうばち)という製品を入れて窯に並べるための治具を廃棄した場所のことです。「伊部南大窯跡」にある物原は規模が大きく、どこか不思議で非現実的な光景が広がっています。
私が訪れた時は、桐の木とマツバウンランという草が紫の花を咲かせていて、何とも言えない幻想的な風景を作り出していました。

「陶印」を探してみよう!

大窯では複数の製作者が共同で多くの製品を焼くので、作者や発注者を区別するために「陶印」というマークが付けられました。物原の陶器の破片をよく観察すると、さまざまな形の陶印を見つけることができます。
※文化財保護のため、史跡内の陶器の破片を動かしたり持ち去ることは禁止されています。
これはメルセデスベンツ社からの発注で作られたのでしょうか?…もちろん冗談です(笑)。
陶印を探していたら興味深いものを見つけました。七福神でしょうか?エンボス加工のように立体的に表現されています。
ふと、物原のむこうを見渡していると、JR伊部駅のそばに何やら目新しい建物が見えています。近くまで行ってみましょう。
こちらは現在休館中の「備前市立備前焼ミュージアム」にかわって、2025年7月12日にオープン予定の「備前市美術館」です。開館にむけて準備は大詰めをむかえているようでした。JR伊部駅の目の前にあるのでアクセスは抜群です。オープンが楽しみですね。

まとめ

備前焼の始まりは平安時代と言われていますので、約千年の歴史があります。陶器に適した粘土を産出することや、薪に使用する豊富な木材を確保できたことなどが伊部が発展した理由と考えられています。今、大窯の跡に立って周囲を見回してみると、膨大な量の土や木材を消費する産業を千年も続けていながら、伊部の周囲には青々とした豊かな自然が広がっています。これは先人たちが脈々と努力を継続してきた結果なのだと思います。
そして現代においても、多くの備前焼作家がこの地で活動し、伝統の発信地として美術館がリニューアルされようとしています。実際に現地を訪れてみて、過去と現在が一本の太い道でつながっている街だなと感じました。史跡や工房、ギャラリーなど、主要な観光スポットが駅から歩いて行ける範囲にあることも大きな魅力だと思います。この夏にはぜひ、備前焼のふるさと「伊部」を訪れてみてはいかがでしょうか。
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