【岡山の古墳】砲台と古墳の複合遺跡「横井上お台場遺跡」に行ってみよう!(岡山市)

「お台場」といえば東京都の湾岸エリアを思い浮かべる人が多いと思います。「台場」とは幕末に築かれた砲台のことで、東京湾以外にも全国各地に「台場」と呼ばれる史跡が残されています。しかし、古代の史跡が豊富な岡山は一味違います。なんと、砲台が古墳の上に築かれているのです。今回は全国的にも珍しい複合遺跡「横井上お台場遺跡(よこいかみおだいばいせき)」をご紹介します。
掲載日:2025年04月25日
  • ライター:田中シンペイ
  • 196 ビュー

幕末の岡山藩

全国各地にある「お台場」と呼ばれる史跡は、いずれも幕末に外国船に対する備えとして築かれたものです。当時は大砲を設置する砲台のことを「台場(だいば)」と呼んでいました。主に軍艦に対処するための施設なので海岸に築かれ、岡山藩も瀬戸内海沿岸にいくつか台場を築いています。そのひとつ、倉敷市の「下津井台場」には今も石垣が残されています。
こちらは「下津井台場」の前方に広がる風景です。瀬戸内海を行き交う船を監視するには絶好のロケーションで、この場所が選ばれた理由がよくわかります。しかし、今回取り上げる「横井上お台場遺跡」は海から遠く離れた内陸部にあります。なぜでしょうか?
幕末において、全国の大名たちは幕府を支持する「佐幕」か、天皇を支持する「勤王(尊王)」か、いずれかの選択を迫られました。岡山藩は勤王派として幕末維新の動乱期を立ち回ることになり、そこで懸念されたのが岡山藩の北に隣接する津山藩と備中松山藩がいずれも佐幕だったことです。不測の事態に備えて、北へ通じる主要な街道であった「津山往来」に台場を築く必要が生じたのです。

意外な場所にある「横井上お台場遺跡」

閑静な住宅街を抜けた山の頂上に「横井上お台場遺跡」(岡山市北区横井上)は存在しています。この写真は遺跡を北側から見たところで、正面に防壁となる土塁が見えています。
「なぜこんなところに?」というロケーションなのですが、それには理由があります。岡山市内と津山方面を結ぶ主要道として現在は国道53号がありますが、「津山往来」は現代とは異なり、「半田山植物園」の脇から山を越えて「横井上お台場遺跡」のそばを通過するルートをとっていました。現在の様子からは想像もつきませんが、ここはかつて岡山の北と南をつなぐ要衝だったのです。

「横井上お台場遺跡」を図解で説明

「横井上お台場遺跡」は標高約90mの山頂部に、もとからあった古墳を利用して築かれた砲台の跡です。周囲に防壁として土塁を築き、北へ向けて砲列を敷いていたと考えられています。現在でも古墳、土塁ともに目視ではっきりと遺構を確認することができ、岡山市の指定史跡となっています。
それでは遺跡の中に入ってみましょう。周囲を取り囲むように築かれた土塁が良好に残されていることがわかります。
古墳の墳頂部から北側を見下ろしてみます。テラス状になっているあたりに大砲が据えられていたのでしょうか。当時は教練場として大砲の発射訓練も行なわれていたそうです。
向かって右側が古墳の斜面で、左側に土塁が見えています。この古墳は直径40mほどの古墳時代中期に築かれた円墳と考えられています。被葬者は吉備の北と南をつなぐ主要道を支配していた有力者ではないか?そんな想像が膨らみます。
各所で墳丘に沿うように土塁が築かれています。普通に考えると、砲台として使用するには古墳の存在は邪魔になるので破壊されてもおかしくない気がしますが、むしろ墳丘を積極的に活用しようとしている意図が見えます。
墳頂に立ってみると古墳がそのまま残された理由がわかる気がしました。墳頂からは周囲の見晴らしがとてもよいので、物見台として利用されたのではないでしょうか。古墳と砲台が見事に融合した、とても興味深い史跡だと思います。

まとめ

いかがでしたでしょうか?正直なところ、少し地味な遺跡だと思います。しかし、この場所から得られるイマジネーションは壮大です。岡山藩は新政府側として戊辰戦争を戦いました。他藩への軍事侵攻も行なっていて、なんと、姫路城を砲撃して姫路藩を降伏させているのです。もしかしたら、この台場で訓練を行なった砲兵が姫路城を砲撃したのかもしれません。また、新政府側にいれば安泰だったわけではなく、維新の直後には「神戸事件」という大きな困難が待ち受けていました。この事件の渦中にいたのが、まさに岡山藩の砲兵隊だったのです(このお話はまたの機会に)。過酷な時代を生き抜いた人々の足跡が残されている、ぜひそんなことを想像しながら訪れてみてください。
マップを見る

同じテーマの記事

このライターの記事