岡山城の天守はなぜ不等辺五角形なのか?唯一無二の謎多き天守を徹底解説!

天守の平面は長方形なのが普通ですが、岡山城天守の1階平面は「不等辺五角形」になっていて、全国でも唯一無二の存在です。なぜ、このような形状をしているのでしょうか?今回はその魅力と謎を徹底解説します。
掲載日:2025年08月20日
  • ライター:田中シンペイ
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古風な天守

漆黒の外観に古風な様式を伝える岡山城の天守は、観光客や城郭ファンから高い人気を誇ります。創建当時から残されていた木造の天守は、非常に残念なことに昭和20年の米軍による空襲で焼失してしまいました。現在は鉄筋コンクリートで外観が復元され、内部は岡山城の歴史を体感できる資料館となっています。
現在の再建天守は焼失前のものと比べると細かな差異がありますが、全体の特徴はしっかりと再現されていると思います。まずは、岡山城の天守が持つ特異性を外観から解説していきます。

天守の構造(1)

岡山城の天守は「望楼型」と呼ばれる構造で建てられていました。「望楼(ぼうろう)」とは物見台や見張台のことで、屋根の上に小さな望楼を載せたことから発展したとされる比較的古い様式です。
そして、天守台は「不等辺五角形」という非常にめずらしい形状で、同じ長さの辺や平行な辺がひとつもありません。これは全国の城の中で唯一無二です。

天守の構造(2)

天守では屋根を「重」、階数を「階」とカウントするので、岡山城は「五重六階」となります。各階の平面形状を見てみると、1階は天守台と同一の不等辺五角形、2階は北側の突出部を少し後退させたことで不等辺六角形に、3階は出窓を持つ屋根裏階で十字のような複雑な形状となり、4階でやっと長方形に、6階ではついに正方形になります。1階の不等辺五角形を上階へ上がるごとに少しずつ修正しながら、「五重六階」という高層建築をつくり上げているのです。

創意工夫の結晶

次は外観の意匠について、天守北面を下から順に見ていきましょう。
・一重目の屋根では、中央から少し右側が2階の壁面にせりあがって不格好になることを防ぐため「唐破風」の出窓でデコレーションしています。
・二重目の大屋根では、2階平面の不等辺六角形に対応するために両端が「縋破風(すがるはふ)」のように変化するなど、複雑さを極めています。
・下から数えて三番目の三角形の屋根は、屋根裏部屋である3階の採光と換気のための出窓なので「重」には含みません。
・四重目は「唐破風」を設けることで、三重目の大屋根と下から迫ってくる出窓の屋根をうまく調和させています。
・五重目は入母屋の向きを二重目、三重目とは90度変えて変化をつけています。
天守は防御のための実戦的な施設ではありますが、象徴としての「見栄え」はとても重要でした。岡山城天守は1階平面が「不等辺五角形」であるという制約を創意工夫で克服して、秀麗な外観をまとうことに成功しています。また、発掘調査によって宇喜多秀家時代の金箔瓦が多数出土したことから、現在の再建天守の屋根瓦にも反映されています。黒地に金を配色すると、格式の高さがより強調されたように感じられます。

参考:安土城との類似性

岡山城以外にも不等辺な多角形の天守台を持つ城がひとつだけ存在します。それが織田信長の安土城です。岡山城の天守は安土城を模してつくられたという伝承があり、かねてから両者には何らかの関連性があるのではと言われてきました。私も安土城跡を訪れたことがありますが、石の積み方や鈍角の天守台が持つ雰囲気は岡山城と非常によく似ていると感じました。
安土城は本能寺の変で焼失した後、数百年にわたり土に埋もれていました。発掘調査の結果、安土城の天守台は不等辺八角形であることが判明しましたが、建物の実態は謎に包まれていて詳細はよく分かっていません。はたして、不等辺八角形の天守台にピタリと沿うように天守を建てたのか、あるいは天守台の形状を無視して内側に長方形の天守を建てたのか、今も論争が続いています。もし、前者であるなら岡山城の天守と似ていた可能性は高いと思われます。

不等辺五角形の理由

ここまでの解説の通り、おそらく「不等辺五角形」という要素はそれなりに困難な課題であったと考えられます。では、なぜそのような形状にしたのでしょうか?
まず、上の図をご覧ください。本丸にはかつて「岡山」という名前の小さな丘陵があり、その地形に沿って未発達な技術で石垣を築いたので「本段」の石垣のコーナーはすべて鈍角(角度が90度より大きいこと)になっています。対照的に、「中の段」は少し後の時代の新しい技術を用いた石垣なのでコーナーがすべて90度になっています。
一般的な見解としては、「本段の石垣が鈍角であることが岡山城の天守が不等辺五角形になった理由である」と説明されています。上の写真のように北側から天守台と天守の関係を見ると、ある程度の説得力はあります。しかし、それだけでは根拠として不十分だと私は思います。なぜなら、石垣の影響を受けない位置に天守を建てることも可能だからです。

残された謎

安土城の話でも触れましたが、天守台の形状にピタリと沿うように建てるか、あるいは天守台の形状を無視して内側に長方形の天守を建てるか、どちらの可能性もあり得たはずなのです。
全国的に見ても天守台の形状と無関係に天守を建てた事例は多く、例えば会津若松城では天守の1階が天守台より小さく作られ、空いたスペースは土塀で囲ってカバーしていました。豊臣秀吉の大坂城天守でも同様の処置が施されていたようです。岡山城の天守においても、北側を少しセットバックさせれば1階平面を長方形にすることは可能だったはずですが、実際にはその方法が選ばれることはありませんでした。その理由こそが謎の核心だと思います。

仮説

この謎について、素人の私なりに仮説を立ててみました。それはズバリ「鬼門除け」です。かつて、「北東」は災いが侵入してくる不吉な方角であると信じられていました。北東の隅を変形させるという「鬼門除け」は全国の城や城下町などで多くの事例が確認されています。
岡山城の天守は城全体の北東に位置しているので、「鬼門除け」のために、あえてこのような形状にしたのではないでしょうか。その実例として、大分県の日出城に現存する「鬼門櫓」では、北東隅を斜めにカットしたように作られていて、建物の平面は「五角形」になっています。

まとめ

これは余談ですが、岡山城の歴代城主は、宇喜多氏→滅亡、小早川氏→滅亡、池田氏→二代続けて急死、と当時の人々の感覚として明らかに不吉な状況が続いていました。そこで、「鬼門除け」の切り札として天守の北東に築かれたのが「後楽園」ではないかと、私はひそかに妄想しています(笑)。
いずれにしても、岡山城の天守があのように複雑な形状をしている理由は謎なのです。世の中、謎を秘めているものほど美しいと思いませんか?唯一無二の天守をぜひ現地でご覧になって、その美しさを実感してみてください。
 
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