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宝暦年間(1751~1764年)に安国寺と改名され、鐘楼を改築しました。梵鐘には永和3年(1377年)と刻銘されていることから美作地方では最古の物と言われています。
標高340mの山頂に築かれた山城で、北東を大手、南を搦手とし、南北に細長い曲輪を連ねています。東西12m、南北20mの平坦部の西側と北側に石垣が築かれています。
現在の社殿は1888年の改築で、境内にある奥御前神社は「狼様(おおかみさま)」と呼ばれ、盗難悪疫除けの神として広く民間の信仰を集めています。
津山市街の北西にある神楽尾城跡は、山頂の本丸から東側に平屋城、南東に津山城、南西に嵯峨山城が望めます。
美作中心部の丘陵上に存在する。日上天王山古墳は、全長56.9mの美作最古の前方後円墳の一つで、竪穴式石槨、葺石、二重口縁の壺形土器が確認されている。日上畝山古墳群は大半が5世紀後半から6世紀前半に築造された、円墳・方墳56基が現存する古式群集墳である。
妙法寺は1615年頃建立され、鶴山から南新座に移され現在の場所に。美作における日蓮宗最大の寺院といわれ、本堂は岡山県指定重要文化財、鐘楼(しょうろう)と鰐口(わにぐち)は、津山市指定重要文化財です。鰐口には、“慶長18年(1614)年暦9月21日作州津山富川村妙…
菅原道真が筑紫へ左遷されたとき、途中で船から降りて丘にあがり、真水を汲んで、その水で墨をすり、歌を一首詠んだ所といわれ、その跡に創建されたのがこの神社とされています。
雪舟・阪谷朗廬・内山完造といった芳井町ゆかりの人物を中心に、芳井町の歴史や文化を写真や資料でわかりやすく解説しています。
1851年母の看護の為に帰郷した学者阪谷朗廬(ろうろ)が若者の育成を目指して開いた漢学塾の跡地。現在では、記念碑があります。
井原市西江原町の「永祥寺」境内にある稲荷で、当地にゆかりのある那須与一が屋島の合戦で扇の的を射抜くとき、破り捨てた袖を祀っています。別名「一発稲荷」として多くの受験生が願かけに訪れます。
1185年2月19日、四国屋島の合戦で弱冠17歳の那須与一は、扇の的を見事一矢で射落とした軍功により備中荏原荘など5ヵ所の領地を賜りました。この墓は古くから扇の的一射必中の故事にあやかって願い事がかなうと伝えられてきました。近頃、特に高校・大学受験の合格を祈…
北条早雲の父である、高越城主伊勢新左衛門盛定が建てた伊勢氏の菩提寺で、早雲も改修・造営を行い、祖先の菩提を弔っています。境内にある宝篋印塔は、盛定と早雲の墓と伝えられています。
県下では珍しい扇の縄と呼ばれる型式で、城郭は扇を広げたように配置され、四段にわたって構築されています。築城時期は不明ですが、南北朝時代に今川氏、後に上田氏が城主となりました。天正3年(1574)に毛利氏の城攻めを受けて落城し、その後江戸時代初期に廃城と…
弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての墳墓群で、箱式石棺・土壙墓・特殊器台棺等多様な埋葬を伴う集団墓と、前方後円墳状の墳丘墓とから成り立っています。集団墓から発見された特殊器台から、古墳時代の円筒埴輪の起源が特殊器台から変化したことも明らかになりま…
飛鳥時代に創建された寺院跡で、塔の心礎は往時の位置に現存しています。出土した軒丸瓦は2種類が確認されていて、第1類は県内最古の飛鳥様式で、第2類は吉備式と呼ばれるものです。
備中松山藩儒・山田方谷(1805~1877)の功績・遺徳を末永く顕彰するため、時の上房郡教育会の拠出金により造られた小公園。明治43年(1910)5月に完成しました。山田方谷は、幕末の藩政改革などに貢献した陽明学者。園内には、三島中州撰文の方谷園記念碑、方谷山田…
山田方谷が隠棲の後に立てた小庵で、外祖父母を祀る持仏堂と3畳の仏間、3畳の床の間を中心とした平屋の簡素な建物です。県の文化財史跡に指定されています。
本殿は、棟札によると1703年(元禄16年)の建築で、檜皮葺、流れ造り三間社です。2本の丸柱を建てて内々陣をつくり、平面的には、中世的な性格をもったものです。妻の部分は、二重虹梁、大瓶束、蟇股、支輪を使用して、美しい構成になっており、江戸中期に完成された…
寺縁起によると、天平勝宝年間(749~757年)に鑑真和上が開基し、後に報恩大師の備前四十八ヵ寺の一つに加えられた寺。
国指定文化財
寒風古窯跡群は7世紀の飛鳥時代を中心とした約100年間にわたり、須恵器が焼かれていたところです。出土遺物は杯や甕など一般的なものの他に、鴟尾や硯、陶棺があり、焼かれた須恵器が奈良の都からも出土することから、単なる地方窯ではなく、半官窯的な性格をもつ窯で…
牛窓港背後の鹿歩山(海抜約90m)に築かれた全長約84mの前方後円墳。古墳時代中期後半に築造されたもの。円筒埴輪その他副葬品が多数出土している。
一山一寺多院制を今に伝える竹久夢二ゆかりの古刹
低い丘陵地帯に鎮座する静円寺は真言宗の寺院。730(天平2)年、行基による創建とされています。その後、報恩大師によって備前四十八カ寺に選ばれた名刹。桃山時代に再建され、1688~1704年(元禄年間)に現在の地に移転されました。かつては33坊の大伽藍でしたが、火…
前方後円墳。墳頭には約 2m×0.9mの家形石棺が剥き出しの状態で置かれています。1907年(明治40年)に鏡、刀、勾玉、管玉などが多数発見され、現在は東京国立博物館に収蔵されています。
観応元年(1350)に足利尊氏がこの城を、子・直冬の離反を鎮圧するため西下の途中、40日余り本陣にしたといわれています。
雷除けに霊験あらたかなことから、別名を「雷神社」と呼ばれる鴨神社。毎年5月3日に行われる大祭は、雷除けの祭りとして古くから農家の信仰を集めてきました。
備前国の戦国大名・浦上宗景により再興された神社で、15世紀代の石鳥居や江戸時代に建立された本殿が残ります。旧赤坂郡式内社のひとつ、宗形三女神を祭神として祀っています。
直径約2.5m、高さが18mあり、葉が一年中黄金色をしている珍しい杉です。推定樹齢は180年ですが、突然変異で葉緑素を失って葉黄素のみとなってしまい、葉が黄金色となりました。岡山県の天然記念物に指定されています。
伊弉諾命、伊弉冊命を祭神とする神社。創建は平安時代の末期、久寿2年(1155年)。寛文11年(1671年)に建立された中山造りの本殿は入母屋造銅板葺の造りで、真庭市指定の文化財となっています。
4世紀後半ごろの築造。標高180mの丘陵部先端に位置する全長59.1m前方後円墳です。古墳時代の美作西部地域における重要な古墳です。
大谷1号墳は大谷・定古墳群のなかでも早くから注目され、調査研究が行われた古墳です。3段の墳丘と前面に2段の基壇をもつ、5段築成の方墳という全国的にもあまり例のないもので、規模は東西で22.7m、南北で16.2m、高さは1段目から墳頂まで8mを測ります。石室は両袖式…
安倍晴明ゆかりの神社
寄島町の鎮守の森、大浦神社は997年、安倍晴明がその霊地に応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の三神を祭り、地方の氏神とした、と伝えられています。社殿は当初、三郎島の霊地にまつられていましたが、永禄年中、鴨方藩の細川通董公により現在の地に移されました。境内地…
築城年代は定かではありませんが、源平合戦で功のあった庄家長がこの地に築城したのではないかといわれています。
丘陵の斜面を整地して造営された下道氏の墓地。ここから和銅元年(708年)の銘文のある銅製骨蔵器等が発見され、奈良時代の墓制を知ることができる貴重な遺跡とされています。
1533(天文2)年に法印精良上人が開山し、1692(元禄5)年に現在の場所に移転しました。1812(文化9)年の大火で本堂を焼失しましたが、弘法大師自作28体のひとつとされている大師像は自ら本堂より抜け出て難を逃れたといわれています。その夜、眼に火傷を負った僧侶…