観光スポット
カテゴリやエリアで検索しよう!
カテゴリやエリアで検索しよう!
作州城東屋敷は出雲街道に面した町家の跡地に建ち、明治8年以降教育の場として長く親しまれていました。
大正ロマンを感じさせるルネサンス調のデザイン
明治42年に旧土居銀行として建築された建物を改修し、津山市を中心に作州一円で作られている民芸品、郷土玩具などを展示しています。2階には城西地区の歴史を物語る資料を展示し、広く城西地区を紹介しています。
作州絣の道具・資料の展示、反物・小物の販売をしています。また、織りの実演や棉繰り・糸紡ぎ体験もあります。
昭和52年墓地造成工事中に発見され、53年に岡山県教育委員会が発掘調査をしました。5世紀初頭頃の前方後方墳で全長35m、前方部と後方部にそれぞれ箱式石棺を持ち、そのどちらにも2体の被葬者がほとんど完全な形でうちちがいに葬られており、後方部からは径12cmのほう…
1917(大正6)年築の中島病院旧本館です。木造2階建てで正面にドームを配し、屋根や窓の細かい装飾が特徴の欧風建築です。カフェやギャラリーが併設されており、ノスタルジックな雰囲気が楽しめます。館内での撮影も可能です。
時代とともに増改築された変化に富む町家
城東地区は、津山城跡の東側を南北に流れる宮川の左岸地区の城下町です。平成25年に重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されました。吉井川の北岸の川と並行して延びる出雲街道沿いに町人地が形成され、その一角に城東むかし町家があります。
1926(大正15)年に建築された木造三階建、銅板葺、時計付の塔屋や細部の浮き彫り等に特徴があります。基督教文書伝道をを目的として設立された日本唯一の基督教公共図書館です。創設者は森本慶三、内村鑑三の門に入った森本が内村の支持を得て開館した。現在は、歴史…
津山市街の北西にある神楽尾城跡は、山頂の本丸から東側に平屋城、南東に津山城、南西に嵯峨山城が望めます。
現在の本堂は宝暦7(1757)年に再建したもの。西東三鬼の代表作「水枕 がばりと寒い 海がある」の句碑墓があります。
寺伝によると823年から832年頃に弘法大師が開山し、当初は「極楽山雲清寺」という寺号だった古刹です。後醍醐天皇も隠岐に流される時に立ち寄ったと伝わります。のちに火災で焼失したが15世紀半ばに再興し、「極楽山清眼寺」に改号しました。
清瀧寺は弘仁12年(821年)人皇52代嵯峨天皇の勅旨により弘法大師が開基されたものと伝えられている。
和銅7(714)年6月に開創されたお寺です。昔は鏡野町にありましたが、森忠政が津山城築城のとき、聖徳太子が諸国を遊化され立ち寄られた場所といわれる津山市小田中に移りました。正保年間に、当時の快映上人は四天王寺に詣で太子を拝見し、微妙の尊像を彫刻し御頭に…
樹齢100年以上、高さ約15m、枝張り幅約18mのしだれ桜は、見るものを魅了します。さくらの季節にはライトアップも行われ、大勢の人で賑わいます。
慶長8(1603)年に森忠政が美濃金山の涅槃寺を移し作州の菩提寺としたが、元禄11(1698)年に森家の後の津山藩主・松平宣富の祖母の戒名より泰安寺と改め、松平家の菩提寺となりました。美作西国三十三所観音霊場、神名:子安観音
奈良時代の和銅年間(707~715年)以前の創建と伝えられている古社です。大隅神社の神輿は、1842年に造られたもので、津山市の重要有形民俗文化財となっています。
木地師の里として栄えた山間の村
昭和49(1974)年に、郷土の風物を開発から守ろうと岡山県が指定した「ふるさと村」7ヵ所の一つ。標高500mの大高下、大杉エリアに茅葺き屋根の民家が点在し、水車が回るのどかな山村のたたずまいが残っています。
江戸時代初期の元和7(1621)年の創建としているが、詳しいことは分かっていません。本堂は江戸時代後期の天保2(1831)年に建築されたものです。
梅雨の季節が楽しみになるあじさい寺
津山の南にある神南備山のふもとに静かに構える長法寺は「あじさい寺」として親しまれています。明治6年の津山城取り壊しの際、アジサイを描いた腰高障子(現在は市指定重要文化財)が贈られ、それをきっかけにアジサイが植えられ始めました。今では梅雨の季節になる…
7つの大テーマで地質時代から現代までの歩みを展示
津山は美作国府・国分寺や津山城が所在するなど、古代から近世まで一貫して美作の政治・経済・文化の中心地として繁栄してきました。特に、1603年森忠政(もりただまさ)が美作18万石余に封ぜられ、まもなく津山城を築いてからは城下町として独特の文化を育んできまし…
本館は明治33年に建設されました。屋根部分は寄せ棟造りで、桟瓦ぶき、正面中央にある台形の塔屋にある時計台が印象的で、カーブを描く窓が異国情緒を醸し出しています。イタリア・ルネサンス様式を取り入れた外観は、当時のハイカラな雰囲気を今に伝えています。
万燈山古墳出土品をはじめとする郷土の文化遺産や、人々の生活の歴史に関する資料を収集展示しています。
明治以前の勝北地域における生活様式や地域文化について、民具・農耕具・古文書などの展示品により紹介しています。
江戸時代の武家屋敷だった旧田淵邸を活用した、県重要有形民俗文化財のだんじりの展示棟などの3棟からなる施設です。だんじり展示棟には文化財のだんじり6基、ガイダンス棟にはだんじり1基と、旧田淵邸の模型や大名行列図の複製などを展示しています。
昭和28年創業で、今も当時の装いのまま店内には可愛い民芸品がたくさん展示されています。竹細工作りも体験できます。
「米つくり」を通して時代の変化を理解できるよう、模型や写真パネルなどに多くの工夫を凝らしています。また、出土した土器の整理作業の様子を見学することもでき、隣りには史跡公園の弥生住居跡があります。
江戸時代初期の慶長9年(1604)に初代津山藩主森忠政の津山城築城に際して城南の覗山(のぞきやま)に移り、さらに慶長13年に現在地へ移築された。現在の本殿は、寛永12年(1635)に2代目藩主の森長継が再建したもの。
森忠正公によって城下の守護神として造営された神社
聖武天皇の御代天平5(733)年の創祀と伝えられている神社です。当初は現在の津山市小田中の地にありましたが、天文8(1539)年火災に遭い社殿や宝物などことごとく焼失しました。慶長8(1603)年美作の国18万6500石の国守大名として入封した森忠政公(森蘭丸の弟)が…
美作中心部の丘陵上に存在する。日上天王山古墳は、全長56.9mの美作最古の前方後円墳の一つで、竪穴式石槨、葺石、二重口縁の壺形土器が確認されている。日上畝山古墳群は大半が5世紀後半から6世紀前半に築造された、円墳・方墳56基が現存する古式群集墳である。
広く美作地方一円の人々から古来より「学問の神」「書の神」として崇敬され、信仰を集めています。受験シーズンには合格祈願が毎年行われています。
中山神社・高野神社と並ぶ美作三社の1つであり、神社の創建等は不詳。美作65郷912社を合祀しています。
津山市街地の西方の丘陵上に並んだ数基の古墳群を呼ぶ。最高所には全長約80mの前方後円墳の胴塚、南に下がって直径約40mの蛇塚と同規模の耳塚の円墳が続いている。古墳時代中期のもの。
本源寺は慶長12(1607)年建立された津山藩主森家の菩提寺。装飾性あふれる霊屋と表門は、寛永16(1639)年の建立で、江戸前期の霊廟建築として貴重である。霊屋背後には森忠政等の大型五輪塔墓があり、石敷の参道や石灯籠とともに、津山藩主一門の菩提所としての威厳…
幕末(19世紀初めごろ)の洋学者である箕作阮甫の生誕地。阮甫は21歳で津山藩医となり、後に江戸に出て洋学を学んだ。カラフト問題でロシアと交渉した時の日記「西征紀行」はよく知られている。
妙法寺は1615年頃建立され、鶴山から南新座に移され現在の場所に。美作における日蓮宗最大の寺院といわれ、本堂は岡山県指定重要文化財、鐘楼(しょうろう)と鰐口(わにぐち)は、津山市指定重要文化財です。鰐口には、“慶長18年(1614)年暦9月21日作州津山富川村妙…
尼子氏に従って美作に入った草苅氏が天文2(1533)年に築城。城郭の範囲は、東西1.6km、南北0.5kmで、県内最大級の規模。天正12(1584)年に草苅氏が退城するまで約50年間一度も落城しなかったという。石垣、土塁、堀切等の遺構が確認される。
行基(667生749没)の開基と伝えられ、寛永年中(1624~43年)に字槍原より現地に移り、薬師院万福寺の称を日光院真福寺と改め、権大僧都光範が中興開山となりました。美作国七福神霊場所(弁財天)で智識・学芸の神様。知恵、記憶、名誉福徳を授ける七福神の中の唯一…
文化11(1814)年に建てられたもので、社殿・唐門・総門の3棟が現存しています。本殿と拝殿とを会いの間でつなぐ権現造で、屋根は共に入母屋造です。