市街地に残された希少な沼城の遺構「庭瀬城・撫川城」と城下町の魅力を徹底解説!(岡山市)
「沼城(ぬまじろ)」とは、沼地や湿地を防御に活用した城のことです。かつて各地にあった沼城の多くは明治以降の近代化によってその面影が失われましたが、岡山市の「庭瀬(にわせ)」には往時の姿を良好にとどめた「庭瀬城」と「撫川(なつかわ)城」が残されています。今回はその城跡と城下町の全貌を徹底解説したいと思います。
- ライター
- 田中シンペイ
- 掲載日
- 2025年12月23日
庭瀬城(岡山市)
「庭瀬城」は戦国時代に備中を支配していた三村氏によって築かれ、続いて三村氏を滅ぼした毛利氏の手に渡りました。羽柴秀吉による中国攻めの際には毛利側の国境防衛の拠点「境目七城(さかいめしちじょう)」のひとつとなっていましたが、秀吉勢の攻撃を受けて落城したと伝わっています。その後は宇喜多氏の城となり、この時期に近世城郭として整備されたようです。
宇喜多家のお家騒動
「関ヶ原の戦い」の前年、備前岡山の領主であった宇喜多秀家の家臣団において内紛が勃発し、戸川氏、花房氏など古くから仕えていた重臣たちが宇喜多家を去り、仲裁に入った徳川家康に預けられるという異常事態が起きました。これは、「文禄・慶長の役(いわゆる朝鮮出兵)」の莫大な戦費をまかなうための過酷な税負担が、家臣たちの間に深刻な対立を引き起こしたことが原因だと言われています。宇喜多家を出奔した家臣たちは翌年の「関ヶ原の戦い」では東軍に属して戦い、戦功により戸川氏は庭瀬へ、花房氏は備中高松へ大名となって返り咲き、かつて主君であった宇喜多秀家は敗軍の将として八丈島へ流刑となりました。下剋上の世とはいえ、何とも皮肉なお話です。
江戸時代に入ると、「関ヶ原の戦い」の戦功により戸川達安(みちやす)が庭瀬藩2万9千石で入封。旧庭瀬城の三の丸を流用して「庭瀬陣屋」とし、城下町の整備を行なって庭瀬繁栄の基礎を築きました。
しかし、その後の戸川家は順風満帆とはいきませんでした。4代目を継いだ戸川安風が跡継ぎのないまま没したことで戸川家は「お家断絶」となり、この時に庭瀬藩の領地は上の写真の黒い破線あたりを境にして東西に分割されました。西側(左側)の撫川エリアには5千石の旗本として家名の存続を許された戸川達富(安風の弟)が「撫川知行所」という陣屋を構え、東側(右側)の庭瀬エリアは「庭瀬陣屋」として別の藩が領有することになったのです。城が二つに分割され、異なる藩が隣り合って所在するというのは非常に珍しいことでした。現在は両者を区別するために上の写真の破線から右側を「庭瀬城跡」、左側を「撫川城跡」と呼び分けていますが、厳密には「城」ではなく「陣屋」で、もとは「庭瀬城」というひとつの城だったのです。実にややこしい話ですね…。
陣屋とは
「陣屋」は、広義においては「お役所」のような意味で用いられ、江戸時代に幕府から城の所有を許されなかった大名(領地が3万石以下など諸条件による)が政務や居住の拠点とした屋敷地を指します。単純な堀、石垣、城門などを備えている場合や、中世の城を流用したものなど、その形態はさまざまでした。また、領主が将軍直参の旗本である場合は「知行所」と呼ぶこともありました。
現在、城跡全体は住宅地となっていますが、沼城として幾重にも巡らされた堀や水路が良好に残されていて、過去と現在が混ざり合った不思議な景観を作り出しています。かつて城だったエリアの南端には「JR山陽本線・伯備線」が通っていて「JR庭瀬駅」から徒歩での散策も可能です。
沼城とは
平地に築かれた城のうち、沼地や湿地を防御のために積極的に活用したものを「沼城(ぬまじろ)」と呼びます。長所としては、大がかりな防御施設を設けなくても守りやすく、攻め手にとっては大軍で攻めることが困難となる厄介な存在でした。同じく岡山市内にあった「備中高松城」が沼城の代表として広く知られています。かつて沼城は各地に存在しましたが、後世の土地改良や埋め立て等により、その面影が失われてしまうケースが多く見受けられます。
撫川城(岡山市)
旧庭瀬城の本丸・二の丸あたりに設けられていた陣屋「撫川知行所」の跡地が「撫川城跡」と呼ばれています。周囲を水堀に囲まれて島状になった場所は、旧庭瀬城の本丸だと考えられます。現在は公園化されていて、明治時代に移築された知行所の総門が現存しているほか、藩主にゆかりのある「三神社」が鎮座しています。
撫川城跡には部分的に野面積み(のづらづみ)の立派な石垣が良好な状態で残されています。石積みの技法や使用されている石は岡山城の本丸本段の石垣とよく似ているように見えます。おそらく宇喜多氏が領有していた時期に整備された石垣と考えられ、比較的古い城郭遺構として貴重なものだと思います。
城下町の見どころ
上の写真は昭和38年に撮影されたもので、城下町をクランク状に通過する「鴨方往来(庭瀬往来)」に沿って商家が密集して建ち並んでいる様子が確認できます。城跡だけではない庭瀬のもうひとつの魅力、それは江戸時代の城下町がどのようなコンセプトでつくられていたのか、コンパクトな事例として気軽に散策できる点です。主な要素は次の3つで、詳細を順にご説明します。
1)主要な街道を城下町に取り込む
2)水運の活用
3)周囲に寺院を集中的に配置する
鴨方往来の古い町並み
1)商業や手工業などが発展するように、岡山城下~倉敷~鴨方~笠岡を結ぶ重要な街道「鴨方往来(庭瀬往来)」を陣屋のすぐ北側に通していました。さらに、庭瀬から北へ行くと西日本の大動脈「山陽道」に接続し、南へ進むと下津井港から四国へつながるなど、ジャンクションのような役割を持つ町となっていたのです。現在でも街道に沿って古い商家が建ち並ぶ姿を見ることができます。
各所に残る道標
庭瀬は複数の街道が交差する場所だったので、行く先を示す道標はとても重要なものでした。各所で昔の道標が大切に保存されていて、当時の交通事情を垣間見ることができます。やたらと出てくる「こんぴら」という表記は四国行きの船が出る港町「下津井」を示していて、当時は「金毘羅往来」と呼ばれていました。
川港と常夜灯
2)水運について、現代人の我々には想像しにくいことですが、かつて物流の中心は船が担っていました。とくに岡山県内では瀬戸内海の港のみならず、豊富な水量の河川を利用した川港が発達していました。庭瀬では足守川と水路でつながることで現在の物流センターのような役割を担い、大変な賑わいを見せていたそうです。そのため水辺にはいくつもの常夜灯が設置されました。現在も保存・復元された常夜灯を庭瀬の各所で見ることができます。
寺町の名残り
3)江戸時代には多くの城下町において外縁部へ集中的に寺院が配置され、一般的には「寺町」と呼ばれました。庭瀬では「鴨方往来(庭瀬往来)」に沿うように寺院を配置していることが見て取れます。その理由として、寺院は頑丈な建造物や門・土塀を備えているため、いざという時には兵員を駐屯させて軍事拠点として活用できたからです。また、強い権勢を持っていた寺院を管理統制したり、城下町の北東に配置して鬼門封じとするなどの意味もありました。
まとめ
私が庭瀬を訪れてみて強く感じたのは、地元の方々が自分たちの町の歴史をとても大切にしているということでした。とにかく案内表示が充実していて、城下町特有の細くて曲がりくねった道が多いにもかかわらず、決して道に迷うことはありませんでした。解説板も親切丁寧なものが多く、スマホで調べる必要はほとんどありませんでした。そして一番感心したのは「庭瀬城跡」「撫川城跡」 のいずれにもきちんと駐車場が用意されていたことです。地方の小さな城跡の場合は、意外とないものなんですよ、これが…。今回はご紹介できなかったスポットもまだまだあります。受け入れ態勢はバッチリな場所なので、ぜひ現地へ行って庭瀬という町のすばらしさを発見してみてください。この記事がその一助になれば幸いです。
紹介したスポットの場所(地図)
- 庭瀬城跡
- 撫川城址(芝場城跡)
Google Mapの読み込みが1日の上限を超えた場合、正しく表示されない場合がございますので、ご了承ください。





































































