【土木遺産】岡山の市街地を水害から守ってきた巨大放水路「百間川」の歴史とその治水施設群に迫る!
江戸時代に築かれた旭川の放水路「百間川」は現在も岡山の市街地を水害から守り続けています。江戸時代の遺構を受け継いだ「荒手」から、最新の「ライジングセクターゲート」まで、その治水施設群をご紹介します。
- ライター
- 田中シンペイ
- 掲載日
- 2026年1月14日
岡山の市街地と水害
意外に思われるかもしれませんが、中世までの日本では大きな水害はそれほど発生していませんでした。なぜなら、河川は氾濫して当たり前で、多くの人々は水害に遭わない場所を選んで居住していたからです。ところが、中世の末頃から利便性を優先した「城下町」などへの集住が始まり、洪水発生時の被害が甚大なものになったのです。
岡山の城下町を流れる旭川には、特殊な悪条件も重なっていました。上流で大規模に行なわれていたタタラ製鉄による土砂の流入で川が浅くなったり、宇喜多秀家による岡山城修築の際に流路が不自然に変更されたことで流れが悪くなっていたのです。こうして、江戸時代のはじめ(1654年)に岡山の城下町は未曾有の大水害に見舞われました。
名君として知られるこの時の備前岡山藩主「池田光政」は、陽明学者「熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)」に対策を考案させ、それを土木工事の名手であった岡山藩士「津田永忠(つだ ながただ)」が実現させました。仕組みとしては、城下町の少し上流で旭川の水を別の放水路へ逃がすというもので、これが現在の「百間川(ひゃっけんがわ)」となりました。堤防などの主要な構造物は1686年頃には完成したと言われています。
しかし、水害との戦いはそれで終わりではありませんでした。昭和9年(1934)の室戸台風により岡山の流域各所で深刻な水害が発生したことを機に、百間川の機能を強化する大規模な改修事業が昭和~平成~令和まで続くことになりました。上の写真は岡山城本丸「内下馬門」の石垣で、白い矢印の先にあるのは「室戸台風の浸水被害の水位」を示したプレートです。同様の表示が市内各所に今も残されています。
旭川との分流部
岡山市中区今在家に旭川から百間川が分かれる分流部があり、「荒手(あらて)」と呼ばれる旭川から百間川へ水を逃がすための特殊な構造物が設けられています。現地周辺は「百間川せせらぎ広場」として春はお花見、夏場には水遊びなどができる市民の憩いの場になっています。
一の荒手
これが分流部にある「一の荒手」です。写真の手前が上流、奥が下流、向かって右側が旭川、左側が百間川になります。かなりスケールの大きな構造物で、全長は約180メートルあります。意図的に周囲の堤防より低くした越流部を設け、旭川の水位がそれを超えると水が百間川へ流れ込む仕組みです。少し先には岡山市中心部のビル群が見えていて、ここが治水上の重要なポイントであることがわかります。
現地を訪れた際は越流部の両端にある石積みに注目してください。花崗岩(黄色っぽい石)の石積みが「亀の甲」と呼ばれる江戸時代の石積みです。「巻石(まきいし)」という独特の工法で堤防を覆ったもので、越流してくる水の力で堤防が崩れることを防いでいます。2016年に発掘調査が行なわれ、地中深くまで石積みが存在することや、何度も損傷と改修を繰り返してきたことが分かりました。調査の後、江戸時代の石積みを一度解体し、コンクリートで補強してから積み直され、現役の治水施設として今も機能しています。
「巻石」という石の積み方は、同じく「津田永忠」が手がけた「閑谷学校」の敷地を囲む石塀でも見られます。「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」という工法で正確に加工した石を隙間なく積み、上部はカマボコ状の曲面に仕上げるという非常~に高度な技術を要する石積みです。「亀の甲」の改修工事にあたっては、安全性を確保しながら歴史的な価値を継承することを目指したそうで、周囲の新しい部分には灰色の資材を用いることで江戸時代の遺構と見分けがつくように配慮されています。
百間川の源流
かつての百間川は平時には水の流れない空川でしたが、改修工事によって現在は少量の水が常に流れるようになっています。この地点は、旭川から取水した小さな流れが始まる百間川の源流であり、児島湾まで約13kmの長さの人工河川となります。
二の荒手
「一の荒手」の800メートルほど下流には、流入する水の勢いを弱めたり、土砂を沈殿させたりする目的で設けられた「二の荒手」があります。こちらもコンクリート等で補強を行なったうえで江戸時代の石積みを使用した現役の治水施設となっています。この「二の荒手」の幅が当時の長さの単位で100間(けん)あったことが「百間川」という名称の由来だそうです。余談ですが、岡山市出身の作家「内田百閒」のペンネームは百間川に由来するそうです。
「二の荒手」にも「亀の甲」が残されています。こちらは水の流れを制御する導流堤として築かれたもので、コンクリートで直接固めて補強されています。かつては「二の荒手」の下流に「三の荒手」も存在したそうですが、明治25年(1892)の洪水によって流失してしまい、現存していません。
堤防の遺構
百間川では昭和40年代から本格的な改修事業が始まり、築造当時の堤防は一部しか残っていません。中流域にあたる岡山市中区米田には、改修以前の堤防の遺構が部分的に残されています。かつての堤防は規模が小さく、橋もなかったので、生活道路が堤防を横断していました。そこに「陸閘(りっこう)」と呼ばれる堤防の切れ目を設けて通行し、有事には陸閘の中央にあるミゾに板をはめて水を防ぐ仕組みになっていました。
百間川の河口
百間川は岡山藩による干拓事業とも深い関わりがありました。旭川の緊急の放水路としてだけではなく、干拓地の排水と農業用水の供給にも関与する重要なインフラだったのです。下流域の両岸は広大な干拓地となり、大規模な治水施設が構築されました。とくに、河口部分がすべて水門で守られている光景は圧巻です。
巨大な河口水門
かつての百間川は上流部では水のない空川でしたが、途中で複数の用水や干拓地の排水が流入し、河口では大河のようになります。しかし、瀬戸内海が満潮の際には川より海面の水位が高くなるため、海水の逆流を防ぐ水門が必要となります。現在、河口水門の中央にある防潮堤広場には、昭和の改修前まで長期にわたって使用されたという石造の水門が展示保存されています。
現在の河口水門の西半分は昭和43年(1968)に竣工しました。幅23メートルの水門が6つも並んだ巨大な施設ですが、基本的な原理は石造時代の水門と変わりません。
河口水門の東半分は平成27年(2015)に完成した「ライジングセクターゲート」という最新の設備で、水門の開閉が回転式になっています。このタイプのものとしては国内最大級だそうで、メカメカしい構造や必殺技のような名称など、なかなか男心をくすぐる施設です(笑)。
瀬戸内海が満潮の際には百間川の水を排水できないため、河口には一時的に水を溜めておく遊水地が必要でした。上の写真の中央でカーブを描く細い堤防は「大水尾(おおみお)」と呼ばれる遊水地を囲んでいた築造当時の堤防です。江戸時代の技術で水害対策と新田開発を同時に実現させた「津田永忠」の手腕には、ただただ驚くばかりです。
まとめ
百間川の治水施設群は「土木学会選奨土木遺産」と「世界かんがい施設遺産」(津田永忠が手がけた倉安川と合同)に登録されたそうです。これほどの治水施設が江戸時代初期に構築されたことも快挙だと思いますが、「荒手」などの改修事業も、自然環境や景観に配慮しつつ、歴史的な遺構の保全と治水機能を両立させる…という難事業でした。主要な工事は平成30年(2018)の6月頃にほぼ完了し、翌7月の「西日本豪雨」では計画通りの機能を発揮したそうです。
近年では気候変動や地震など想定外の出来事が頻発し、尽きることのない自然災害の脅威に暗鬱になることもありますが、これらの治水施設群の歴史を知れば、人類の叡智に期待してみてもいいのかな…そんな気持ちになれると思いますよ。
紹介したスポットの場所(地図)
- 一の荒手(百間川せせらぎ広場)
- 二の荒手
- 米田の堤防遺構
- 百間川河口水門
- 大水尾の堤防遺構
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