【空から見る岡山の史跡】岡山を代表する名城「岡山城」を空から徹底解説!
かつての「岡山城」は壮大な規模を誇った大城郭でしたが、現在は市街地化によって都市のなかに埋没しています。そこで、地上からでは分かりにくい城の全容について、古絵図や航空写真などを用いて分かりやすく解説していきたいと思います。
- ライター
- 田中シンペイ
- 掲載日
- 2026年7月22日
現在の岡山城
岡山城を今のような姿へと発展させたのは、備前・美作を統一した戦国大名の宇喜多氏でした。「本丸」を「岡山」と呼ばれていた小さな丘陵に移し、旭川の流路を変更して城の外堀としました。岡山城を北や東方向から見ると、旭川が不自然に蛇行して「本丸」を取り囲み、城の外堀として機能していることが分かります。このように、河川などの地形を利用して城の背面の防御を固める手法を「後堅固の構え(うしろけんごのかまえ)」と言います。
曲輪について
「本丸」や「二の丸」など、堀や高低差によって仕切られた城の区画のことを「曲輪(くるわ)」または「郭(くるわ)」と呼びます。陣地の周囲を柵や堀でまるく囲った様子から生じた言葉と考えられ、やがて「~丸」という呼び方になりました。一般的には城の中心部から「本丸」「二の丸」「三の丸」と続き、「北の丸」や「西の丸」のように本丸との位置関係を示す場合もありました。
現状は「本丸」と「二の丸」の一部が国の史跡「岡山城跡」に指定されていて、実質的には「本丸」だけが公園として整備されているような状態です。かつて「本丸・本段」には創建時から残る五重の天守が建っていましたが、1945年6月の岡山空襲で焼失し、1966年に外観のみ復元されました。この時に一緒に復元された城門や土塀のほか、「本丸・中の段」には江戸時代から残る貴重な現存建物「月見櫓」があります。今回の記事では「本丸」については簡単な紹介にとどめておきたいと思います。
まずは現在の様子を空から見てみましょう。市街地のなかにポイントとなる箇所を記載してみました。これを見れば、いかに壮大な城だったかお分かりいただけると思います。しかし先述の通り、「旭川」とL字型の「内堀」に囲まれた本丸周辺だけが「岡山城跡」として認識されているのが現状です。本丸以外にはほとんど整備らしいことは行なわれておらず、どこまでが城の領域だったのかさえよく分かりません。ここからは、さまざまな角度で岡山城の全体像に迫っていきます。
古絵図で見る岡山城
上に示した絵図『備前国岡山城絵図』は江戸時代の正保年間(1644~1648年)に作成されたものです。幕府へ提出するための絵図なので内容は正確だと思われます(この頃はまだ「岡山後楽園」は存在していません)。五重の天守以外にも三重櫓や二重櫓がひしめくように建ち並び、壮大な城郭であったことが分かります。現在まで残されている建物が「月見櫓」と「西手櫓」の2棟のみというのは、本当に寂しい限りです。
尚、「三の丸」には隅櫓、楼門、土塀などの城らしい構造物がまったく描かれていないため、岡山城における「三の丸」は城下町を守る簡素な防塁=「惣構(そうがまえ)」を指していたと考えられます。
出典:岡山大学図書館所蔵「池田家文庫」絵図公開データベースT3-84より抜粋して作成
絵図をもう少し広域で表示してみました。城の中心部には「岡山(天守の建っている場所)」「石山(旧本丸)」「天神山」という3つの小さな丘陵を取り込み、東(絵図では右側)を流れる旭川を背に、西(絵図では左側)へ向けて曲輪が展開されている様子が分かります。これら西方に設けられた幾重もの防塁は、宇喜多氏の後に入封した小早川氏や池田氏によって築かれたものです。つまり、江戸時代の岡山藩では、敵は西からやって来ると想定されていたことになります。
出典:岡山大学図書館所蔵「池田家文庫」絵図公開データベースT3-84より抜粋して作成
現在も「西川緑道公園」として市街地の中心部を流れている「西川」は、農業用水であると同時に城下町の西端を守る水堀として機能していました。また、現在の「柳川筋」は「二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれていた外堀の跡で、明治に入ってすぐに埋め立てられ路面電車の通る大通りへと発展しました。
山陽道の守り
江戸時代に想定されていた西から来る敵とは、関ヶ原の戦いで敗れ、幕府に対して強い遺恨を持っていた「長州藩:現在の山口県のあたり」と「薩摩藩:現在の鹿児島県のあたり」のことであろうと考えられます。池田氏は外様大名でありながら特別待遇を受けており、有事の際には幕府のために戦うことを期待されていたのです。このように「山陽道」には幕府からの信頼の厚い藩が要所に配置されていました。幕末に長州藩と薩摩藩が西から攻めてくるという予測は的中しましたが、まさか池田氏までが尊王攘夷派として幕府の敵にまわるとは予測できなかったようです。
失われた堀と曲輪
明治以降に堀は次々と埋め立てられ、城の敷地は本丸をのぞいて市街地化していきました。現在は「烏城公園」となっている「本丸」のほかは、「西の丸」と「二の丸(内郭)」の一部を残すのみとなっています。ここからは、ふだん紹介されることがほとんどない「本丸」以外の曲輪の様子をご案内していきますので、ぜひ上のイラストや古絵図などを参照しながらご覧ください。
上の航空写真は1947年に撮影されたものです。堀が埋められた状況は現在とほとんど変わりませんが、「天神山」「西の丸」「石山門」「石山」「対面所」「外下馬門」の塁線や水堀の痕跡が今よりはっきりと視認できます。もちろん、注意深く観察すれば現在でも確認できます。
それにしても、天守台に何も写っていないことが悲しいですね…。
二の丸(内郭)の石垣
「岡山県立図書館」の敷地内に残る「外下馬門(そとげばもん)跡」の石垣です。かつては長い木製の橋を渡った先に大きな城門があり、大手門から本丸へ至るメインルートとなっていました。本丸以外で史跡らしい整備が行なわれている貴重な箇所で、内堀は水盤で再現され、橋脚の位置も分かりやすく表示されています。また、「内山下(うちさんげ)幼稚園」と「岡山県立図書館」の境界に「二の丸(内郭)」の石垣がひっそりと残されています。
対面所跡(林原美術館)
「林原美術館」のある場所はかつて「二の丸・対面所」と呼ばれ、御殿や隅櫓が建っていました。現在ある長屋門と敷地内に建つ土蔵は、岡山藩の支藩「生坂藩」の岡山屋敷から明治時代に移築されたものです。周囲には「対面所」の石垣が良好に残されており、西面ではその全容を見渡すことができます。石垣に面した道路もかつてはすべて水堀でした。
石山(旧本丸)
「西の丸」と「本丸」の間に位置する「石山」と呼ばれた小さな丘陵は、宇喜多秀家の父である宇喜多直家の頃には岡山城の「本丸」だったと言われています。ただし、今残る石垣は池田氏時代の遺構です。
西の丸(内山下小学校跡)
「西の丸」の敷地内にはかつて「内山下(うちさんげ)小学校」があり、現在は廃校となっています。その傍らには1945年6月まで「石山門」と呼ばれるL字形の立派な櫓門が残っていましたが、こちらも岡山空襲で焼失しました。石山門跡から「西の丸」の南面にかけて、今も豪壮な石垣が残されています。「西の丸」の周囲の石垣はほぼ完存しており、北側でも「北門」へ続いていた石垣を見ることができます。
西の丸 西手櫓
西の丸(旧内山下小学校)にある「西手櫓」は江戸時代から残る貴重な現存建物です。かつては周囲を高層ビルに囲まれ、ビルの谷間からわずかに覗き見ることしかできない状況でした。今では正面のビルが解体されて、土地を所有する企業がコインパーキングにしてくれているおかげでその雄姿を見ることができます。
東門跡・素軒屋敷櫓跡
本丸から二の丸にかけての旭川沿いには石垣がよく残されています。「東門跡」や「素軒屋敷櫓跡」は、現在では曲輪の痕跡がほとんど失われてしまった「二の丸(外郭)」の貴重な遺構となっています。
まとめ
近年は全国各地で城の整備事業が飛躍的に進んでいて、10年ぶりくらいに地方の城を訪れると様相が一変していて驚かされることがあります。そのようなトレンドと比較すると、現在の岡山城の整備状況は遅れていると言わざるをえません。もちろん、岡山城でもさまざまな整備計画があり、地元民として岡山城が持つポテンシャルの高さを信じて疑うことはありません。
城が街に埋もれていくことも元通りに復元することも、同じ歴史の流れの中にあって、岡山城は今も変化を続けています。ぜひ、今しか見ることができない岡山城を見に来てください。意外とおすすめなのが夕暮れから夜にかけて。ライトアップのイベントなどもありますよ。
地図
- 岡山城(烏城)
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