【空から見る岡山の史跡】津田永忠ゆかりの灌漑史跡を空から徹底解説!
歴史的に、または地理的に少し複雑な要素を持っている観光スポットは、俯瞰してみると分かりやすくなる場合があります。今回は航空写真を用いながら、土木工事の名手であった岡山藩士・津田永忠が携わった灌漑史跡を分かりやすくご紹介したいと思います。
- ライター
- 田中シンペイ
- 掲載日
- 2026年5月21日
石の懸樋(赤磐市)
さっそくですが、ここでクイズです。上の写真に写っている石造の構造物は何でしょうか?
答えは「石の懸樋」です。
と言われても、何のことだかまったく分からないですよね(笑)。そもそも「懸樋」を何と読むのかさえ普通は分かりません。これは「かけひ」と読み、水を通すための橋のこと。つまり「水路橋・水道橋」の一種です。なぜこのようなものが必要だったのでしょうか。順を追って解説していきます。
岡山と農業用水
晴れの国と言われるだけあって岡山は雨が少なく、かつては慢性的な水不足に悩まされていました。さらに、江戸時代の岡山県南部では干拓による新田開発がさかんに行なわれましたが、農地をつくればそれで終わりではありません。かつて海だった土地には真水がないので、農業用水の確保は非常に重要かつ難しい課題だったのです。それらの解決のため「倉安川」や「田原用水」などの用水路がつくられることになりました。
「田原用水」は和気町の田原(たわら)で吉井川から取水され、瀬戸町で「砂川」に合流する全長約18kmの農業用水です。途中にはいくつかの難所がありましたが、土木工事の名手「津田永忠」によって難事業が成し遂げられました。
「田原用水」は途中で「小野田川」と交差することになるのですが、これが難所のひとつでした。「小野田川」は「田原用水」よりも低い位置を流れているため、合流させると水がすべてそちらへ流れてしまうのです。そこで、立体交差によって合流することなく小野田川を越えるために築かれたのが「石の懸樋(かけひ)」です。上の写真は「石の懸樋」が現役で機能していた頃のもので、河川の上を用水路が越えていく様子がよく分かると思います。
津田永忠とは
名君として知られる備前岡山藩主「池田光政」と嗣子「綱政」は、土木工事の名手であった岡山藩士「津田永忠(つだ ながただ)」を二代にわたり重用し、岡山の繁栄の礎となる数々の事業を実現させました。その活躍は干拓や河川改修などのインフラ整備から閑谷学校や後楽園といった文化事業まで多岐にわたります。
1982年には、小野田川の河川改修工事にともない「石の懸樋」は解体され、熊山町徳富に移築保存されました。おかげで今は間近でじっくりと見学することができ、いかに高度な技術を用いて築かれたものであるのかよく分かります。大量の水が通るので水が漏れないことはもちろん、強い水圧にも耐えなければなりません。これだけ高度な構造物が江戸時代初期に完成し、それが昭和の後期まで現役で機能していたという事実に驚かされます。
かつて「石の懸樋」があった場所の現在の様子です。小野田川の堤防は従前の2倍くらいの高さにかさ上げされているので、「石の懸樋」を移築する以外に方法がなかったことがうかがえます。現在の「田原用水」はコーヒーのドリップ方法でも知られる「サイフォンの原理」を使って小野田川の下を通っているのだそうです。それはそれで何だかすごい仕組みですね。
「石の懸樋」から少し下流には、大きな岩盤を約180mにわたり掘削して用水を通したという「百間の石樋(いしひ)」があります。この場所以外でも台地を掘削して通水させるなど数々の難工事を乗り越え、「田原用水」は元禄7年(1694年)には完成したと言われています。
倉安川 吉井水門(岡山市)
「倉安川」は吉井川から取水され旭川までつながる全長約20kmの人工河川で、農業用水と運河を兼ねています。こちらも「津田永忠」が手掛けたもので、延宝7年(1679年)に完成したと言われています。「吉井水門」には現在も2つの水門と「船だまり」などが残されています。
「一の水門」と「二の水門」がありますが、吉井川に面した「一の水門」は完全に水面から離れた状態となっていて、あまり風情はありません。しかし、水門を真下から見上げるなど、本来なら見れない角度から詳細を見学できる点はありがたいですね。
空から見た現在の様子です。新たに築かれた吉井川の堤防によって完全に川から隔絶されていて、これでは水門としてのイメージがあまり湧きません…。少し時代をさかのぼってみましょう。
上の写真は堤防ができる以前の様子です。「一の水門」は吉井川へ直に面していたことが分かります。吉井川の中に斜めに横たわっているのは「吉井堰」で、河川から水を引き入れるためにはダムのように水をせき止めておく必要があったのです。普通に土や石を盛った程度ではすぐに流されてしまうので、強い水流を受け流せるように斜めに構築され、高瀬舟が通る水路も確保されていました。
倉安川は高瀬舟が通行する運河としての役割も担っていたため、吉井川と倉安川の水位の違いを調整するための「高瀬廻し(たかせまわし)」という船だまりが設けられていました。つまり、吉井水門は「閘門」も兼ねていたことになり、現存する国内最古の「閘門」という側面もあるそうです。
閘門(こうもん)とは
水位が異なる水路を船が往来する際に、2つの水門によって囲まれたエリア(ここでは「高瀬廻し」)の水量を変化させることで、エレベーターのように船を垂直方向に移動させる仕組みのことです。

1979年には、少し上流に完成した可動堰「坂根堰」に取水口としての役割をバトンタッチしています。「坂根堰」から取水された水は地下を通って吉井水門の北西へ通水し、倉安川へ水を供給しています。これによって吉井水門はお役御免となったわけですが、貴重な文化遺産として保存されることになりました。そして2019年に、倉安川は百間川と合同で「世界かんがい施設遺産」に登録されました。倉安川が開削されてから、ちょうど340年目の出来事でした。
まとめ
過去の記事で同じく津田永忠が手掛けた「百間川」を取り上げた際にも感じたのですが、300年以上も前に築かれたものが昭和の後期くらいまで現役で機能し、我々の豊かな生活の礎となっているなんて本当にスゴいことだと思います。
今回ご紹介した「百間の石樋」の真上には「山陽自動車道」が通っていて、見事な造形美に思わずシャッターを切りました。我々の時代も300年後の人々が驚くような何かを残したいものですね。
紹介したスポットの場所(地図)
- 田原用水水路橋(石の懸樋)
- 倉安川吉井水門
- 百間の石樋
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