岡山市内の陣屋をめぐる歴史散歩。意外と知られていない陣屋跡5選
「陣屋(じんや)」とは、江戸時代~明治初頭まで運用された地方行政の拠点(城郭以外)のことです。豊臣秀吉にも縁のある「足守陣屋」は比較的知られていると思いますが、岡山市内には他にも多くの陣屋跡があります。今回は、そこに秘められた意外な歴史とともにご紹介していきます。
- ライター
- 田中シンペイ
- 掲載日
- 2026年3月23日
1.足守陣屋(岡山市北区)
「足守陣屋」は堀と石垣がひっそりと残る、とても風情のある史跡です。陣屋としてのセオリー通り、方形の小さな堀を周囲に巡らせたシンプルなつくりとなっています。足守藩2万5千石の初代藩主「木下家定(きのした いえさだ)」は、いま大河ドラマでも話題の豊臣秀吉の正室ねねの実兄です。
妹を陰から支えた控えめな生涯でしたが、木下氏は明治まで繁栄しました。ちなみに、家定の長男は江戸初期を代表する歌人「木下長嘯子」、次男「利房」が足守藩を継ぎ、3男「延俊」は豊後日出藩主、5男は養子に出された「小早川秀秋」です。
大名と陣屋
原則として3万石未満の大名は城を持つことが許されず、ごく簡単な堀や石垣で区画された政庁・住居として「陣屋」を設けていました。また、幕府や広い領地を持つ大名が出先機関として設けた役所も広義の「陣屋」となります。領主が旗本の場合には「知行所」、幕府の直轄領の場合には「代官所」とも呼ばれます。
歌に通じている家系なのでしょうか、大正時代に活躍した白樺派の歌人「木下利玄(きのした りげん)」は木下家の第14代当主で、陣屋跡にはその生家が残されています。長屋門の向かって右手にある土蔵からは、秀吉をはじめとする豊臣家の貴重な古文書が多数発見され「木下家文書」と呼ばれています。
木下利玄の短歌
ここで木下利玄の代表的な短歌を二首ご紹介しておきます。
牡丹花は 咲き定まりて 静かなり
花の占めたる 位置のたしかさ
街をゆき 子どものそばを 通るとき
蜜柑の香せり 冬がまた来る
彼の名前を知らなくても、これらの歌はどこかで見聞きしたことがあるのではないでしょうか。
陣屋跡のすぐ隣には足守藩の庭園「近水園(おみずえん)」が残されていて、うれしいことに入園は無料です。6代藩主の木下公定(きんさだ)が京都の「仙洞御所」(上皇のための御所)の修築に携わった経験をもとに造営したと言われています。数寄屋造りの「吟風閣」には、下賜された御所の残材が使用されているのだとか。
木下公定は学問を奨励し、藩内の教育にもたいへん熱心だったそうです。こうして醸成された藩の気風が、やがて日本の近代医学における先駆者となった「緒方洪庵」の誕生につながったのでしょう。橋を渡った足守川の対岸には「緒方洪庵」の生誕地があります。
陣屋跡から100メートルほど南東には、足守藩の家老「杉原家」の武家屋敷が残されています。ほぼ完全な状態で保存されており、こちらも入館無料で一般公開されています。
足守小学校の校庭の隅に、かつては学校の正門としても使われていたという立派な長屋門(木下権之助屋敷表門)が残されています。このほか、古い商家が立ち並ぶ昔ながらの景観がよく保たれているなど、足守の人々は伝統を大切にしているんですね。
2.金川陣屋(岡山市北区)
「金川陣屋」は、31万5千石を擁する大藩「岡山藩」の出先機関として、家老の日置氏が領地を治める拠点としていました。現在も「北区役所 御津支所」の周囲に当時の石垣が残されています。岡山藩では領内にある「陣屋」のことを「御茶屋」と呼んでいましたが、幕府への配慮として“軍事施設ではありません”というアピールが必要だったのでしょう。
大きさの単位「石(こく)」とは
1石は成人ひとりが1年間に食べるコメの量を意味し、重さではなく体積を表しています。現在でもお米やお酒の単位として用いられる1合「180cc計量カップ」の10倍が1升「一升瓶」、1升の10倍が1斗「一斗缶や灯油のポリタンク」、1斗の10倍が1石です。
石高(こくだか)とは、その領地が持つ生産力をコメの量に換算して表したもので、例えば「10万石」はおよそ10万人を養える生産力を持つ領地ということになります。
御津金川の日置氏と言えば、慶応4年・明治元年に神戸で起きた外交問題「神戸事件」の責任者「日置帯刀(ひき たてわき)」が知られています。命を賭して日本の危機を救ったラストサムライ「瀧 善三郎」ゆかりの「七曲神社」や「岡山市御津郷土歴史資料館」(入館無料)も見どころです。
3.庭瀬陣屋(岡山市北区)
関ヶ原の合戦の戦功により備中庭瀬2万9000石を与えられた戸川達安(みちやす)は、宇喜多時代の城跡(便宜上ここでは旧庭瀬城とします)を利用して「庭瀬陣屋」を設けました。資料が少ないため推定となりますが、城を持てない戸川氏は旧庭瀬城の東半分を陣屋の敷地としていたようです。これが現在では「庭瀬城跡」と呼ばれています。
もとは宇喜多氏の重臣だった戸川氏
「関ヶ原の合戦」の前年、備前岡山の領主であった宇喜多秀家の家臣団において内紛が勃発し、戸川氏をはじめとする古くから仕えていた重臣たちが宇喜多氏のもとを去り、仲裁に入った徳川家康に預けられるという事態が発生しました。戸川氏は「関ヶ原の合戦」では家康のもとで戦い、その戦功によって大名へと出世し、かつて主君だった宇喜多秀家は八丈島へ流刑となりました。
昔は乳幼児の死亡率が非常に高く、世継ぎの男子を必ず残すのは容易なことではありませんでした。藩主が世継ぎのないまま亡くなると“お家断絶”となり、幕府によって改易(取り潰し)されてしまいます。宇喜多秀家に代わって備前岡山に入封した「小早川秀秋」も世継ぎのないまま早世して改易されましたが、江戸時代初期には珍しいことではありませんでした。それを懸念してか、戸川氏は領地を小さく分割して積極的に分家をつくり、庭瀬周辺には戸川氏の分家が治める陣屋が5つも存在していました。
4.撫川陣屋(岡山市北区)
戸川氏の懸念は現実のものとなり、本家の4代目「安風」は世継ぎのないまま早世して、あえなく庭瀬藩は改易となりました。しかし、「安風」の弟「達富」へ撫川の領地を分けて相続させていたため、旗本として家名の存続が許されました。こうして「庭瀬陣屋(後に板倉氏が入封)」のすぐとなりへ「撫川陣屋(再興された戸川氏)」が設けられることになったのです。
「撫川陣屋」は正確には「撫川知行所」なのですが、現在では「撫川城跡」と呼ばれています。確かに、城と呼びたくなるほど広い水堀と野面積みの立派な石垣が残されていますが、戸川氏が城を築くことはできないため、これらは旧庭瀬城の本丸の遺構ではないかと考えられます。
以上が、現在「撫川城跡」と「庭瀬城跡」がとなりあっている理由です。
5.妹尾陣屋(岡山市南区)
「妹尾陣屋」も戸川氏の分家のひとつです。現在は住宅街となり、わずかに石垣の一部と井戸が残されています。明治以降も陣屋跡の井戸は地元の人々から大切にされ、今も井筒と覆屋(おおいや)が現存しています。解体修理の際に見つかった墨書きから、この覆屋は1857年に建てられたものであることが分かりました。
「妹尾陣屋」の長屋門は明治5年に設置された「小田県」の県庁舎へ移築されました。小田県はわずか3年ほどで岡山県に合併されましたが、門は現在も笠岡市内に残されています。笠岡小学校の敷地に建つ長屋門には土塀、堀、石橋も整備されていて見応えがあります。ちなみに、ここは幕府が直轄支配していた笠岡陣屋(笠岡代官所)があった場所で、領民を飢饉から救うために奔走した名代官「井戸平左衛門」の最期の地として知られています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。比較的地味な「陣屋」という史跡も、その歴史を紐解いていくと意外な事実や、時代の背景が見えてきて面白いものです。近くを訪れた際には「陣屋跡」もぜひ観光の候補に入れてみてください。
紹介したスポットの場所(地図)
- 足守陣屋
- 金川陣屋
- 庭瀬陣屋
- 撫川陣屋
- 妹尾陣屋
- 小田県庁跡(笠岡市)
Google Mapの読み込みが1日の上限を超えた場合、正しく表示されない場合がございますので、ご了承ください。




































































