【空から見る岡山の史跡】備中高松城の水攻めを空から徹底解説!(岡山市)
歴史的に、または地理的に少し複雑な要素を持っている観光スポットについては、俯瞰してみると分かりやすくなる場合があります。今回は航空写真を使いながら、「備中高松城跡」(岡山市)の見どころをご案内したいと思います。
- ライター
- 田中シンペイ
- 掲載日
- 2026年4月27日
備中高松城とは
「備中高松城跡」は岡山市北区高松に所在し、現在はきれいな公園として整備されています。城跡と言っても目立つ遺構はほとんどなく、のどかな風景からは当地がなぜ歴史にその名を残す激しい戦場となったのか想像もつきません。
秀吉の中国攻めの舞台
天下統一を目指す織田信長は中国地方の征服を企図し、羽柴秀吉を総大将に任命して山陽・山陰の各地に侵攻させました。攻める織田に対して在地勢力は守りに入るため、戦いの多くは攻城戦となりました。そんな激戦のなか、中国地方の覇者毛利氏と織田軍が激突した備中の国境地帯において、毛利氏の防衛ラインの要となったのが「備中高松城」だったのです。
空から見た「備中高松城」の現在の様子です。中央に見えている木立のあるエリアが本丸跡です。城跡の中心をなす本丸、二の丸、三の丸を道路が縦断しているうえに、もともと周囲からわずかに標高が高くなっている程度の遺構なので、現地へ行ってもどこからどこまでが城跡なのか正直なところよくわかりません…。
曲輪の配置
まずは、分かりやすくするために城の曲輪が推定される領域に色を付けてみました。少しはイメージしやすくなったでしょうか。「備中高松城」の各曲輪には、石垣のような構造物は当初からありませんでした。大がかりな防御施設を必要としないほど、守りやすく攻めにくい地形だったということです。
曲輪とは
「本丸」や「二の丸」など、堀や高低差によって仕切られた城の区画のことを「曲輪(くるわ)」または「郭(くるわ)」と呼びます。陣地の周囲を柵や堀でまるく囲った様子から生じた言葉と考えられ、やがて「~丸」という呼び方になりました。
周辺の地勢も含めた復元図にしてみました。城の周囲は沼地や湿田(泥が深くて排水できない水田。泥田や深田とも呼ばれる)が広がる要害の地で、徒歩はもちろん船でも近づけないため、大軍で攻めることは困難でした。このようなタイプの城を「沼城(ぬまじろ)」といいます。
城外から三の丸へ至る進入路には、舟を一列に並べた上に板を渡した「舟橋」が架けられていました。現在は普通の短い橋ですが、その位置がわかるように「舟橋」と表示してくれています。このように、城の各部に設けられた橋は戦時には容易に撤去できるようになっていたそうです。名将「清水宗治」の指揮のもと城兵たちが頑強に戦ったこともあり、「備中高松城」は難攻不落の様相を呈していました。そこで「力攻め」を断念して「水攻め」が考案されたのです。
城攻めの種類
・力攻め(ちからぜめ)…文字通り圧倒的な戦力で正面から城を攻め落とす方法です。城の守りが堅い場合には味方に多くの犠牲が出るリスクがありました。
・兵糧攻め(ひょうろうぜめ)…城を完全に包囲して物資の補給を絶ち、食糧が尽きた城兵側が降伏するのを待つという方法です。味方に犠牲が出ない堅実な方法ですが、長い期間を要するというリスクがあります。そこで秀吉は、事前に現地のコメを高値で買い占めたり付近の領民を城内へ追い込むなど、早く兵糧が尽きるような工作も行なっていました。
・水攻め(みずぜめ)…低湿地に立地する城の周囲に堤防を築くなどして城を水没させる方法です。高度な土木技術と経済力を必要とする難易度の高い方法です。
水攻め築堤の全容
「備中高松城」は三方を山に囲まれた低湿地にあり、南方のみが平野部へ開けていました。そして時季は梅雨。そこで「蛙ケ鼻(かわずがはな)」から足守川まで約3kmにも及ぶ堤防(図中の茶色い破線)を築き、足守川の水を引き入れることで城とその周辺をまるごと水没させる作戦が実行されました。これが世に名高い「備中高松城の水攻め」で、軍師「黒田官兵衛」の献策を採用したものと言われています。
蛙ケ鼻
「蛙ケ鼻(かわずがはな)」には、当時築かれた堤防の一部が今も残されています。秀吉が本陣とした石井山の麓あたりに「高松城水攻め史跡公園」として整備されているので、城跡とともにぜひ訪れて欲しいスポットです。
残された堤防は一部削られてしまっているようですが、それでもはっきりと堤防だと分かる姿をとどめています。また、発掘調査によって基底部が確認されており、堤防の断面を台形に見立てると、底辺の幅は約22メートル、上辺の幅は約11メートル、高さは約7メートルもあったと考えられています。想像以上に大きな構造物で、これを12日間で完成させたというのは驚異的です。秀吉は領民に対して、土俵ひとつにつきコメ1升と銭100文を与えることで、それを可能にしたと言われています。
足守川 水取入れ口
築堤の西端となる足守川のほとりには「水取入れ口」の跡があります。先ほどは12日間で大規模な堤防を完成させるなんて驚異的だと述べましたが、これを否定する説もあります。大規模な堤防が必要なのは「蛙ケ鼻」から「JR備中高松駅」あたりまでの数百メートルのみで、そこから足守川の水取入れ口までは自然な微高地だったので築堤は必要なかったというものです。もしそうだとするなら、その複雑な地形を見抜いたことが驚異的だと言えるかもしれません。時間が許すなら、地形のことを意識しながらこのあたりを散策するのも楽しいと思います。
まとめ
織田信長が本能寺の変で横死し、秀吉が天下人に名乗りを上げるという歴史の分岐点となった場所が備中高松でした。秀吉は城主「清水宗治」の切腹を条件に急ぎ毛利氏と講和を結び、中国大返しを実現して主君の仇討ちを果たしました。この地で、力攻めではなく水攻めを選択したことで自軍を温存できた意味は大きかったはずです。
もしも秀吉が水攻めを選択していなかったら…もしも清水宗治が潔く切腹していなかったら…歴史はどう変わっていたのでしょう。時代の分岐点となった場所を実際に訪れて、そんな歴史の“もしも”に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。
紹介したスポットの場所(地図)
- 備中高松城跡
- 備中高松城址資料館
- 備中高松城水攻め史跡公園
- 足守川水取入れ口跡
Google Mapの読み込みが1日の上限を超えた場合、正しく表示されない場合がございますので、ご了承ください。













































