【空から見る岡山の史跡】中世の城館跡「院庄館跡」に行ってみよう!(津山市)
「院庄館跡(いんのしょうやかたあと)」は津山市内に残る鎌倉時代~室町時代の史跡です。美作国を統治した守護職の館の跡と推定され、「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」ゆかりの地でもあります。今回はその奥深い歴史と見どころをご紹介していきます。
- ライター
- 田中シンペイ
- 掲載日
- 2026年8月24日
史跡の概要
「院庄館跡」は津山市の西部に位置し、「JR院庄駅」や中国自動車道の「院庄インターチェンジ」でその名に聞き覚えがあるという人もいるかもしれません。
鎌倉幕府や室町幕府は、日本各地の国ごとに「守護」を任命して統治にあたらせていました。この史跡は、美作国(みまさかのくに)の「守護」が居所や政務所として使用した「守護所」の跡と推定されています。敷地内には現在「作楽神社(さくらじんじゃ)」が鎮座しています。
中世の城館とは
平安時代の末から戦国時代にかけて、武士が築いた平地の居住施設と山の上に築いた砦などを総称して「中世の城館」と呼びます。基本的には平地に土塁や水堀を築いて方形の区画を設け、日常的に使用する居所や政務所としていました。そして、いざ紛争が起きると険しい山の上に築いた砦に移って戦う、といった使い分けが行なわれていたのです。いずれも構造物としては簡素なものでした。
一方で、姫路城や名古屋城のように立派な石垣や楼閣を備えた恒久的な城を「近世城郭」と呼びます。これらは少し後の時代、おもに安土桃山時代~江戸時代初期に築かれたものです。
まずは上空から見てみましょう。中央にある四角いエリアが「院庄館跡」です。国の史跡に指定され、その規模は東西約150m南北250mに及びます。ほぼ長方形の外形をしていて、敷地の北、東、西側には土塁が残されています。南側(写真では下側)だけが不整形なのは、かつて川が流れていた名残だそうです。
こちらの写真は、少し時代をさかのぼった1947年に撮影されたものです。史跡自体は現在とほとんど変わりませんが、周囲に田畑しかないので、より明確に方形の館であったことを確認できます。室町時代の途中までは使用されていた痕跡があるものの、戦国時代になると「守護」は有名無実となり、院庄館は廃絶されたと考えられます。
土塁と堀
周囲に残る土塁は、低いながらも明瞭に視認できます。
発掘調査で確認された往時の水堀は幅が3mほどしかなく、実戦向きというより権威を示すための形式的なものだったようです。
意外なことに、現在見られる周囲を巡る水堀は第二次世界大戦中に復元されたものだそうです。地元の学生たちによる手作業だったとのことで、大変な重労働であったことは想像に難くありません…。なぜ、そこまでして堀を復元しようとしたのでしょうか。そこには歴史上のとある出来事が背景にありました。
後醍醐天皇と児島高徳
院庄館は戦前・戦中まで、『太平記』に出てくる後醍醐天皇と児島高徳の伝承の舞台として全国的に知られていました。
【伝承の概要】
天皇家の権威復権を目指す後醍醐天皇は、元弘2年(1332年)鎌倉幕府の打倒に失敗し、捕らえられて隠岐(島根県)へ島流しとなります。備前児島の武将「児島高徳(こじまたかのり)」は護送される後醍醐天皇の救出を図りましたが、船坂山(備前市)や杉坂峠(美作市)での救出作戦に失敗。後醍醐天皇が院庄館にいることを知った児島高徳は、ひとり厳重な警備をかいくぐって館へ侵入し、門のそばにあった桜の木に10文字からなる漢詩を刻みました。幕府側の警備兵には詩の意味が分かりませんでしたが、詩の真意を理解できた後醍醐天皇はおおいに励まされたと言われています。
『太平記』とは
鎌倉幕府の滅亡~南北朝時代~室町幕府の成立までの約50年にわたる戦乱を描いた軍記物語。全40巻からなる壮大な物語の前半部分は後醍醐天皇が実質的な主人公となっています。
その10文字の漢詩がこちらです。()は書き下し文です
天莫空勾践(天勾践を空しうすることなかれ)
時非無范蠡(時に范蠡なきにしもあらず)
意訳すると次のようになります。
天は勾践を見放すことはない
必ずや范蠡が現れるはずだから
これは中国の春秋時代の故事にちなんだもので、勾践(こうせん)という王が一度は危機に陥りながらも范蠡(はんれい)という忠臣の活躍で復活を遂げたという話になぞらえて、「自分が范蠡になるので決して望みを捨てないでください」という意味になります。
江戸時代に津山藩によって児島高徳を顕彰する石碑が建立されたのを皮切りに、幕末には尊王思想の盛り上がりから神社の建立が建議されるに至りました。そして明治2年、ついに後醍醐天皇を正祀、児島高徳を配祀とする「作楽神社」が創建されたのです。
後醍醐天皇と児島高徳の伝承は多くの詩や歌のモチーフとなり、文部省唱歌にもなりました。こうした世相の行きついた先に、先述の堀の復元という事業があったのです。
敷地内には文学碑や記念碑が林立していて、さながら展覧会のようです。院庄館が持つ歴史の厚みを物語っているようでした。
県内では「醍醐桜」(真庭市)も後醍醐天皇ゆかりのスポットとして知られています。
後鳥羽院との関係
後醍醐天皇より100年ほど前、「承久の乱」(1221年)で鎌倉幕府に敗れて隠岐へ流された「後鳥羽上皇/後鳥羽院」も「院庄」と深い関わりがあります。そもそも、この地は「後鳥羽院」の荘園があったことから「院庄」という地名になったのだそうです。
後鳥羽院が隠岐へ護送される際に同行していた寵妃が当地で病死し、この付近に埋葬されたことを伝えているのが「女院塚/女院ぐろ」の石碑です。
そして、後鳥羽院の皇子「冷泉宮 頼仁親王(れいぜいのみや よりひとしんのう)」は承久の乱に連座して倉敷市の児島(当時は離島)へ島流しとなり、同地で亡くなりました。児島高徳はその子孫だという説があります。
戦国時代に備前と美作の覇者となった宇喜多氏は「児島高徳」の子孫を称していたので、旗印に「兒」の字を用いたと言われています。何だか不思議なつながりですね。
まとめ
いかがでしたでしょうか。単に鎌倉時代の史跡というよりも、中世から昭和までの日本人の文化や精神性を体感できる、生きた博物館のような印象を受けました。事前に調べてから訪れてもいいし、訪れた後に気になったことを調べてみてもいいと思います。きっと歴史への探求のきっかけを与えてくれる場所だと思います。
地図
- 院庄館跡(児島高徳伝説地)
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