地味だけど歴史的にスゴい岡山の遺跡3選(岡山市・倉敷市)
岡山県には、考古学の世界では広くその名を知られている遺跡や、歴史的に大きな意味のある遺跡がたくさんあります。現地の状況は地味だけれど、その歴史的背景を知れば行ってみたくなる。今回はそんな遺跡を3つご紹介します。
- ライター
- 田中シンペイ
- 掲載日
- 2026年9月25日
1.上東遺跡(倉敷市)
倉敷市の「上東遺跡(じょうとういせき)」は、弥生時代後期から古墳時代前期の集落や港の跡です。古代吉備の中心地だったと考えられ、考古学的に重要な意味を持っています。場所は、弥生時代に国内最大となる墳丘墓が築かれた「楯築遺跡」から少し南へ進んだあたりで、かつては海に面していました。
現在は「RSKバラ園」の前に、ひっそりと遺跡があることを示す案内板が建っています。その裏面には、遺跡の詳しい解説も表示されていますので必見です。
ポイント解説1
国内最古級の波止場状遺構
「上東遺跡」には全国的にも珍しい遺構があります。当時としては高度な土木技術を用いて築かれた“突堤”または“波止場”の跡で、幅約5m~14m、高さ約2m、長さ45m以上という規模を誇ります。同様の遺構は、長崎県の壱岐で見つかった「原の辻遺跡」とあわせて全国で2例しか確認されていません。つまり、当時としては国内有数の大きな港があったことを示唆しており、『魏志倭人伝』に出てくる「一支国」は壱岐で、「投馬国」は吉備のことではないかという説もあります。
ポイント解説2
「桃の種」の大量出土
「上東遺跡」では、なんと約9600個もの“桃の種”が出土しました。これは全国的に見ても突出しており、同一の遺跡からの出土数として日本一です。他のゴミは見当たらず“桃の種”だけが集中的に見つかっていることから、単に桃の実を食べた後のゴミではなく祭祀の痕跡であろうと考えられます。
古来より桃の実には霊力が宿ると信じられ、呪術に用いられていました。港の跡から見つかっていることから、航海の安全を祈願する祭祀が行なわれていたと考えられます。同じく、祭祀に用いられたと思われる多種多様な土器が1000個以上も出土し、なかにはユニークな絵が刻まれた絵画土器も見つかっています。
桃の種が意味すること
「上東遺跡」は卑弥呼と同時代の遺跡です。当時の日本のことが記された中国の書『魏志倭人伝』のなかに「卑弥呼は鬼道で人々を心服させた」という趣旨の記述があります。「鬼道」は「道教」と類似するものと考えられ、「道教」には桃の実を神聖視する信仰がありました。
邪馬台国の有力な候補地である奈良県桜井市の「纒向(まきむく)遺跡」では一ヵ所から約2800個の“桃の種”が発見され、卑弥呼の「鬼道」と関係があるのではないかと大きな話題になりました。「上東遺跡」での発見数はこれをはるかに上回っているため、桃を用いた祭祀のルーツは吉備にあった可能性も考えられます。いずれにしても、太古の昔から岡山は桃との関わりが深いのです。
案内板のむこうに見えている道路の付近で波止場状遺構が見つかりました。「上東遺跡」は非常に大規模な遺跡であることが予想され、将来の再発掘に備えて埋め戻して地下に保存されています。そのため、現在視認できる遺構は何もありませんが、ここには大いなるロマンが眠っているのです。
2.都月坂古墳群(岡山市)
当遺跡をご紹介する前に、まずは予備知識の解説をさせてください。
ポイント解説1
埴輪とは
一般に、古墳の墳丘上に並べられた土器を「埴輪(はにわ)」と呼びます。古墳時代初期においては「円筒埴輪(えんとうはにわ)」と呼ばれる円柱形のものが主流で、やがて建物、動物、人物などをかたどった「形象埴輪」へと発展していきます。皆さんが「埴輪」と聞いてまず思い浮かべるのは「形象埴輪」の方かもしれません。
上の写真は「千足古墳(せんぞくこふん)」(岡山市)に再現された埴輪列で、周囲にずらりと並んでいるのが「円筒埴輪」、柵に囲まれているのが家をかたどった「形象埴輪」です。
続いて、なぜ「円筒埴輪」というものが生まれたのかをご説明します。まず、神へのお供え物を入れる容器としての「壺」と、それを置くための「器台」が弥生時代に発生します。ここまでは全国的に同じです。ところが、吉備地方では「器台」も「壺」も大型化し、装飾性が増した特殊なものへと進化します。これを「特殊器台」「特殊壺」と呼び、大きなものは高さが1メートルを超えるものもあります。さらに「特殊器台」は壺を置くという本来の機能を捨て、墳丘の上に単体で並べられるようになります。これが「特殊器台形埴輪 」で、やがて「円筒埴輪」となります。
引用画像:岡山県古代吉備文化財センター「収蔵品紹介」より抜粋
ポイント解説2
埴輪のルーツは吉備
古墳時代になると、墳丘の上に「円筒埴輪」を並べるという祭祀が全国へ普及しました。その「円筒埴輪」のルーツと考えらえる独特の特徴を持った土器が吉備で発見されている…つまり簡単に言えば、吉備独特のスタイルが、やがて全国のスタンダードになったということです。これをさらに言い換えると、吉備は大和王権の誕生に深く関わっていた、あるいは中心的な存在だったということになります。
「都月坂古墳群(とつきざかこふんぐん)」は、岡山市北区津島の丘陵の上にあります。軽自動車がギリギリ通れるかどうかの狭小な坂を上りきった尾根上に、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての墳丘墓・古墳があわせて4基築かれています。1号墳は全長約33メートルの「前方後方墳」で、出土した土器は「都月型特殊器台形埴輪」と名付けられ、「特殊器台」が「円筒埴輪」へ変化する最終段階を示しています。考古学の世界では「都月型」という呼び名で通じるほど著名な存在です。
「都月坂古墳群」では、見学できるような整備は行なわれておらず“この山林のなかにある”ということしか分かりません。周囲には私有地もあり、そもそも危険なので木立の中には立ち入らずに道路から確認することにとどめてください。この場所で、かの有名な「都月型」が出土した。その事実を噛み締めましょう(笑)。
現地で確認できる案内板はこれのみです。手作り感があって、頻繁に作り直されている気がします。いったい誰が用意してくれているのでしょうか…?ちょっと不思議です。
ちなみに、過去に「おか旅」の記事でご紹介したことのある「尾治針名眞若比咩神社(おじはりなまわかひめじんじゃ)」の境内の裏手に「都月坂3号墳」が位置しています。
3.万富東大寺瓦窯跡(岡山市)
奈良県の東大寺の瓦が岡山でつくられていた、と聞いたら驚きませんか?ここは、そんな意外な歴史を教えてくれる遺跡です。
ポイント解説1
東大寺の再建
奈良時代に聖武天皇の発願によって建立された「東大寺大仏殿」は源平合戦の折、1180年に焼失しました。その後、「後白河上皇」の命を受けた「重源」という人物が朝廷や鎌倉幕府の支援を受けて東大寺の再建活動を始めました。
1193年には、備前国が東大寺の造営料国(費用を捻出するための国)に指定されます。そして、重源らの指揮のもと、当地に瓦を焼くための窯(かま)が築かれたのです。これが「万富東大寺瓦窯(まんとみとうだいじがよう)」です。
ポイント解説2
なぜこの地が選ばれたのか
この地域は古くから陶器の高い技術を持っていたことにくわえて、良質な粘土と、吉井川の水運を用いて中国山地から運ばれる豊富な薪炭の存在がありました。さらに、吉井川を使えば完成した大量の瓦を船に載せて畿内まで運ぶことができたのです。この丘陵一帯が瓦生産の一大拠点となっていたと考えられ、こうして作製された瓦は約30万〜40万枚にのぼると推測されています。
軒丸瓦(写真はレプリカ)には、中央に「大日如来」を表す凡字、周囲に「東大寺大仏殿」という銘文が巡っています。これを手作業で何十万枚もつくるなんて、気の遠くなるような作業です。昔の人々の情熱ってすごいですね。
ただ残念なことに、こうして鎌倉時代に再建された「東大寺大仏殿」も戦国時代に再び兵火に遭って焼失し、現在建っているのは江戸時代に再々建されたものです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。これらの歴史的な事象について、少しでも興味を持ってくれる方が増えたらうれしいです。
「万富東大寺瓦窯跡」ではスマホを使ったAR体験などの新しい試みも行なわれているようです。デジタルコンテンツだけれど現地へ行ってこその体験ができる、というのは素晴らしいアイデアですね。
紹介したスポットの場所(地図)
- 上東遺跡
- 都月坂古墳群
- 万富東大寺瓦窯跡
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