破壊された城郭「下津井城」の魅力に迫る!瀬戸大橋をのぞむ壮大な城跡(倉敷市)
岡山県内に城跡は数あれど「下津井城」のような総石垣づくりの近世城郭は希少です。さらに、意図的な破壊の痕跡が残る全国的にも珍しい城跡です。今回は、観光情報としては紹介される機会が比較的少ない「下津井城跡」について深掘りしていきます。
- ライター
- 田中シンペイ
- 掲載日
- 2026年10月26日
下津井城跡とは
下津井城(しもついじょう)は岡山県倉敷市下津井にある近世城郭の跡で、岡山県指定史跡および「瀬戸大橋架橋記念公園」として整備されています。そのため城跡としてのみならず、瀬戸内海と瀬戸大橋を見渡せる絶好のビューポイントとしてもおすすめです。実のところ、一般の観光客の方には意外と知られていないので穴場スポットと言ってもよいと思います。
公園の広い駐車場に車を停めて、整備された遊歩道を5分ほど登ると城の西端に位置する「西の丸」に到着します。
西の丸
鬱蒼とした遊歩道の階段を登りきって視界が開けた先には「馬場」と呼ばれる平坦な区画があり、そこに「西の丸」の石垣が堂々とした姿を現します。これは城好きにとっては、なかなか感動的な光景だと思います。
ここで注意して見ていただきたいのが石垣の左右両端です。本来あるはずの石垣の角の部分が崩れて失われています。この意味は後ほどご説明します。
曲輪とは
「本丸」や「二の丸」など、堀や高低差によって仕切られた城の区画のことを「曲輪(くるわ)」または「郭(くるわ)」と呼びます。陣地の周囲を柵や堀でまるく囲った様子から生じた言葉と考えられ、やがて「~丸」という呼び方になりました。一般的には城の中心部から「本丸」「二の丸」「三の丸」と続き、「西の丸」や「北の丸」のように本丸との位置関係を示す場合もあります。
「西の丸」には巨石が横たわり、城跡らしい荒涼とした空間が広がっています。ここでも瀬戸内海と瀬戸大橋の絶景をのぞむことができます。下津井城跡では、ほぼすべての曲輪から同様の絶景を楽しむことができます。
池田氏が築いた石垣には自然石ではなく切り出した石が用いられているため、「矢穴」と呼ばれるクサビを打ち込んで石を割った痕跡が残されています。城内を散策する際には、いたるところに散乱している石にも注目してみてください。
曲輪の配置
下津井城は瀬戸内海に面した標高約90メートルの丘陵上に築かれた城です。瀬戸内海航路の要衝である下津井港をおさえる出城として、宇喜多氏の時代にはすでに存在していたと考えられます。1603年に岡山藩主となった池田氏によって現在残る近世城郭へと大改修され、1639年に破却されたという記録があります。石垣の技法や出土した瓦には、岡山城における池田氏時代の遺構との共通性が確認できます。
城の構造としては尾根の上に細長く曲輪が連なっていく「連郭式」と呼ばれる配置になっていて、各曲輪には堅固な石垣が築かれていました。本来の大手(城の正面ルート)は南側から「二の丸」へ至るものだったようです。現在は北側の遊歩道から「西の丸」に入り、東方向へ向かって城内を巡っていく経路になっています。ここからは上の図も参照しながら各曲輪の様子をご覧ください。
堀切と土橋
敵が尾根の上を簡単には移動できないように、尾根筋を寸断するように設けられた堀を「堀切(ほりきり)」と呼びます。上の写真は「西の丸」と「二の丸」を寸断する「堀切」に設けられた「土橋」の跡で、図中のAになります。おそらく、築城当時の堀はもっと深かったはずです。
厳重な防御
土橋を渡ると正面には「二の丸」が控えています。そこに立ち塞がるように構築されている厳重な石垣が図中のBです。不思議なことに城内でここだけ石垣が崩れていません。これは何を意味するのでしょうか?
本丸
おそらく本来の城の順路ではありませんが、現在はBの石垣の北側を通り抜けて、そのまま本丸へと至ります。そこには少し拍子抜けするほど小さな天守台(図中のC)が残されています。石垣は相当に破壊が進んでいて、もとの形状はよくわかりません。ただ、そのサイズ感から推定すると下津井城の天守は普通の城の隅櫓程度の大きさであったと考えられます。
二の丸
続いて、本来の順序とは逆に「本丸」から「二の丸」へ下りていきます。「二の丸」には大手門に相当する厳重な門の跡があるはずなのですが、藪に覆われていて確認できませんでした。
そのかわりというわけではありませんが、ここには立派な休憩所があり、目の前に瀬戸大橋がのぞめます。少し休憩してから散策を続けましょう。
三の丸
次は「二の丸」から「三の丸」へ移動します。東へ移動することで瀬戸大橋との距離がどんどん近くなるので、「三の丸」では城内からの眺望がクライマックスを迎えます。
「三の丸」は城内でもっともよく石垣が残るエリアで、その壮観な姿は見事と言うほかありません。石垣は全面にわたって上部が崩れており、本来はもっと高かったと考えられます。海上からよく見える「三の丸」の南面へ立派な石垣を築くことで、瀬戸内海を航行する船舶を牽制する狙いがあったのでしょう。
破城の痕跡
ここまでご覧いただいて、石垣の崩れ方に特徴があることにお気付きでしょうか?老朽化によって自然に崩れる場合は石垣の中央あたりから崩壊します。下津井城では石垣の角の部分や上半分が崩れており、これらは人為的な破壊の痕跡と考えられます。
城を政治的、儀礼的な意図をもって破壊することを「破城(はじょう)」や「城破り(しろわり)」と呼び、近世城郭では「肥前名護屋城(佐賀県)」など限られた城跡でのみ確認される貴重な歴史的遺構です。
下津井城の場合は1615年の「一国一城令」で廃城となった後、1638年の「島原の乱」で現地にあった城跡が一揆の拠点に利用された事案を受け、1639年に下津井城についても念のため再度の破壊が行なわれたのではないかと考えられます。
一国一城令とは
大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した1615年に江戸幕府が全国の大名に向けて発した統制令です。原則として大名は自らが住む居城をひとつ残して、支城などを廃城にする(破却する)ことを命じられました。岡山藩の場合は岡山城を残し、それ以外の支城はすべて廃城となりました。
中の丸
「三の丸」からさらに東へ進むと「中の丸」へと続きます。見晴らしの良い細長い曲輪で、春には桜も楽しめそうです。そして、北側にそびえる巨大な遊園地「ブラジリアンパーク 鷲羽山ハイランド」が視界に入ります。実は、城跡を散策している間ず~っとジェットコースターの轟音と「キャー!!」という乗客たちの悲鳴が聞こえていました(笑)。
「中の丸」の先にも「東出丸」という小さな曲輪が存在するのですが、現在は介護施設などが間に建っているため実質的にここで散策は終了となります。城跡の見学は1時間もあれば足りますので、その後は麓にある「下津井町並み保存地区」を散策したり、鷲羽山ハイランドへ行くのもありだと思います。観覧車から下津井城跡を俯瞰することもできますよ。
まとめ
いかがでしたでしょうか。荒涼とした城跡と美しい瀬戸内海のコントラスト、その魅力の一端が伝わっていれば幸いです。私は学生時代から何度も足を運んでいて、高校生だった頃に下津井城を見たあと鷲羽山ハイランドでバンジージャンプをしたことを懐かしく思い出しました。
「破城」「城破り」というのは文献記録があまりないため、誰が指揮を執ってどのように実施したのか、念入りに破壊する箇所とそのまま残す箇所の違いは何なのか等、実態はよくわかっていません。そんな謎を秘めている点も下津井城跡の魅力だと思います。瀬戸大橋観光などにあわせて、ぜひ一度訪れてみてください。
地図
- 下津井城跡
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