宇喜多氏の歴史から知る、岡山発展の経緯。開催中の「岡山県立博物館」特別展情報も!
- ライター
- 岡山戦国武将隊
- 掲載日
- 2026年10月1日
目次
岡山と宇喜多氏
現在の岡山城がある地には、戦国時代には岡山、石山、天神山という3つの丘があった。宇喜多直家は、その石山にあった城を1570年頃手に入れ、天神山を出城として取り込み1573年頃には本拠地として、城下町の基礎を築く。その跡を継いだ直家の息子・秀家が、岡山に石山の城も取り込んで新たな城を築き上げたのが「岡山城」なんじゃ。城下町も更に拡大され、岡山という地名はここからきているということなんじゃ。
直家以前の宇喜多氏(大賀島寺、砥石城、備前福岡|瀬戸内市)
直家以前の宇喜多氏は、直家の祖父である能家(よしいえ)が備前東部に勢力のあった浦上氏の家臣として、今の瀬戸内市にある砥石城を拠点としておった。孫にあたる直家はここで生まれたと伝わる。能家については資料が少なく詳しいことはわかっておらぬが、「絹本著色宇喜多能家像」という宇喜多能家の肖像画(国の重要文化財)が残っておる。また、能家が1502年と翌年に備前西部に勢力を持っていた松田氏と戦ったという資料があり、浦上氏の勢力拡大を軍事面で支えた武将だったといえる。しかし、島村氏により攻撃され討ち死にし、直家は父と共に逃れ流浪したと伝わるが、詳しくはわかっていない。
宇喜多氏再興のため浦上氏に仕官(乙子城、新庄山城|岡山市)
直家はその後浦上氏に仕官し、1544年頃に乙子城の城主になり、宇喜多氏再興のスタートを切る。乙子城は吉井川の河口近くの小高い丘に築かれた山城で海に面しておった。現在は城跡の一部が神社になっておる。主郭は神社の西側の最も高い場所にあり、主郭を取り囲むように腰曲輪が配置されておった。その後、内陸部に勢力を伸ばして新庄山城へと居城を移し、勢力範囲を拡大していくのじゃ。
直家勢力拡大(亀山城、金川城|岡山市)
宇喜多直家書状(永禄7年(1564)8月27日 岡山県立博物館蔵)の内容
宇喜多直家が現在の赤響市にいた武将に対して出した手紙です。文中にある「三修」は、直家と激しく戦闘を続けた三村亮家親のことです。直家は、三村家親が備前国への侵入を狙っていること等について記しています。

主従の逆転(石山城|岡山市、天神山城|和気町)
直家は浦上氏の家臣として勢力を拡大していくと、主家の浦上宗景と対立するようになる。天正元年(1573)に石山城(現在の岡山城)に本拠地を移して毛利氏と同盟し、天正2年(1575)には浦上氏を攻め、翌3年(1576)に本拠天神山城を攻め、落城させて浦上氏を備前から追いやった。備前の戦国大名としての地位を築いたのじゃった。
宇喜多氏と毛利氏との関係
永禄9年(1566)直家は毛利側の備中の有力国人・三村家親を暗殺。これをきっかけに三村氏と宇喜多氏の対立が激しくなりました。直家は浦上宗景と対立するようになると、毛利氏と手を結びます(1574~1578年頃)。この時期には宇喜多氏と毛利氏が一緒に戦うこともありました。天正3年(1575)宇喜多氏と毛利氏の連合軍が備中松山城を攻め、三村元親を滅ぼします。そして同年、浦上宗景の天神山城を落とし、浦上氏を備前から追い出します。その結果、宇喜多氏は備前の大部分を支配するようになりました。
織田信長が中国地方へ勢力を伸ばしてくると、情勢が大きく変わります。天正6年(1578)頃までは、宇喜多氏と毛利氏は共闘して織田方と戦っていました(上月城への援軍)。ところが天正7年(1579)、直家は毛利氏から離れ、織田信長・羽柴秀吉側につきました。ここから直接対決になり、備前・美作・備中の国境付近を中心に両軍が戦います(美作の医王山城包囲戦など ※写真参照)。そして天正10年(1582)の備中高松城の戦いがおこります。

織田家との同盟(備中高松城|岡山市)
天正7年(1579)、直家は毛利氏に離反し、織田方となる。直家は天正9年病没(天正10年説もあり)し、その後は秀家に受け継がれた。その翌年に起こった備中高松城の戦い(秀吉による備中高松城水攻め)には、直家の弟・宇喜多忠家が幼い秀家の代理で宇喜多軍を率いて出陣しておる。そして本能寺の変が起こったのじゃ。
八郎(宇喜多秀家)制札(1582年・備前市教育委員会蔵)について
宇喜多直家の後を受け継いだ秀家は、幼いながらも領主としての仕事を求められていたようです。この禁制は八塔寺に対して秀家が、幼名八郎のままで出したものです。以前直家の代わりに宇喜多忠家の息子与七郎の出した内容と変わっていないのは、同じことを引き継ぎ秀家が認めたことを示しています。

秀吉の傘下に入り五大老に(岡山城|岡山市)
宇喜多秀家は信長の後を継いだ羽柴秀吉に重用され、秀吉政権のもと五大老の地位を築いた。石山城のとなりの岡山に秀吉の援助を得て高石垣を伴う城郭・岡山城を築き上げたのじゃ。天守には秀吉の許可なくしては使用できなかった金箔瓦が耀き、本丸南側の高石垣は当時日本一の高さを誇るなど、最新技術を駆使しての大城郭じゃった。さらに城下町も広がっていった。そうして関ケ原合戦を迎えたのじゃ。
宇喜多秀家黒印状(1594年・岡山県立博物館蔵)の内容
文禄元年(1594)8月、秀吉は隠居所として京都の伏見で築城し始めました。宇喜多秀家も築城に協力することになり、領地から材木等を用意して提供しました。この書状では秀家が家臣の楢原に対して作業を怠ることがないよう厳しく指示しています。

関ケ原後の宇喜多氏と岡山
宇喜多秀家は豊臣秀吉に厚遇された経緯もあり、17,000人という西軍最大級の軍勢を率いて関ケ原合戦に臨んだ。しかし、東軍の勝利により秀家は直家以来の岡山を含む領国全てを失ったのじゃ。秀家は戦場を離脱した後、薩摩の島津氏に匿われ、その後徳川家康のもとに引き渡されて八丈島に流罪となった。備前の領国は小早川秀秋に与えられ、その後池田家へ引き継がれた。小早川秀秋、池田家はどちらも岡山城や城下町の整備を精力的に行って、現在の岡山の発展に寄与している。
岡山県立博物館で「宇喜多直家と秀家 ライバルとしのぎを削ったサムライたち」開催中(~11月23日)
岡山城の整備など、岡山市街の礎を築いた戦国武将・宇喜多直家、秀家父子に焦点を当てた特別展「宇喜多直家と秀家―ライバルとしのぎを削ったサムライたち」が、岡山県立博物館で2026年11月23日まで開催されておる。秀家所用と伝わる「黒漆塗桐紋蒔絵鉄五枚胴具足」や、関ケ原の戦いで秀家の死を偽装するために提出された重要美術品「短刀 銘 来国次」など約90件の資料を公開。直家の書状やライバル武将ゆかりの武具など、乱世を戦い抜いたサムライたちの足跡を紹介しておる。
2000年以降、岡山県内外で戦国時代の古文書や武器・武具の調査が進み、また、宇喜多氏の歴史を語る上で参考にされる江戸時代の軍記物の再評価や岡山県古代吉備文化財センターによる県内の城館調査で、戦国時代の岡山の様子をより詳しく正確に知ることができるようになった。この特別展は最新の研究成果などを盛り込んで、岡山城を拠点に活躍した宇喜多親子とそのライバルたちについて紹介している。
おしまいに
岡山の礎を築いた宇喜多氏の足跡を時系列で追いながら、その関連した城や寺院、合戦地などを巡ってまいった。一度没落しそこから備前の覇者となるまでの宇喜多氏の道のりは、とても永く険しいものだったろうと想像できた旅であった。と同時に、宇喜多直家・秀家親子の足跡を順番にたどることで現在の岡山の成り立ちや、少しややこしい岡山の戦国時代も見えてきた気がする。紹介したスポットの地図を①番から順番に訪ねると宇喜多氏の足跡が時系列になるので、歴史好きの方には特におすすめしたい。
紹介したスポットの場所(地図)
- 大雄山大賀島寺
- 砥石城跡
- 砥石城登山口
- 宇喜多直家生誕之地碑
- 乙子城跡
- 新庄山城
- 沼城跡
- 金川城
- 石山(石山城)
- 天神山城跡
- 天神山城登城口(天瀬ルート)
- 天神山城・天瀬侍屋敷跡
- 備中高松城址
- 備中高松城の戦い秀吉本陣跡
- 備中高松城の戦い宇喜多忠家陣所跡
- 宝福寺
- 医王山城跡
- 岡山城(烏城)
- 天神山
- 岡山城創建地下石垣
- 小早川時代の石垣(本丸本段東側)
- 池田氏時代の石垣
- 岡山後楽園
- 岡山県立博物館
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