天守が残る日本で唯一の山城「備中松山城」は巨大な岩盤の上に立つお城でした!
岡山県高梁市(たかはしし)にある備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)をご案内します。
標高430mの臥牛山(がぎゅうざん)頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683年(天和三年)に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。
この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返されています。
登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが舌を巻いた「難攻不落の名城」の面影をうかがい知ることができます。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守です。
標高430mの臥牛山(がぎゅうざん)頂上付近に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683年(天和三年)に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。
この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返されています。
登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが舌を巻いた「難攻不落の名城」の面影をうかがい知ることができます。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守です。
- 掲載日
- 2018年4月11日
雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台(雲海展望台)
秋から春にかけての早朝には雲海が一面に広がり、運が良ければ「雲海に浮かぶ備中松山城」を見ることが出来ます。雲海展望台から、3月末の昼間に撮影した写真です。中国山地の山並みが美しいと思いました。
「雲海展望台」に関する詳細は、下記のリンクからご覧ください。
「雲海展望台」に関する詳細は、下記のリンクからご覧ください。
①備中松山城 大手門跡
大手門から先には多くの石垣が残っていますが、ひと際、目を引くのが大手門の右側にそびえる石垣群です。天然の岩盤の上に石垣を築き、更に土塀を建てています。
この岩盤の風景は、NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像で使われました。詳細は下記のリンクをご覧ください。
この岩盤の風景は、NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像で使われました。詳細は下記のリンクをご覧ください。
②備中松山城 土塀(三の平櫓東土塀)
土塀の一部が現存のもので、残り半分は復元されたものです。壁の段差で、現存部分と復元部分を区切っています。この土塀は国指定重要文化財です。
③備中松山城 三の丸
土塀を左にしながら、さらに登ると右側に三の丸があります。ここからは段々に築かれた石垣を見ることができます。山城の醍醐味を味わえる一つのポイントです。
「備中松山城のみどころ」を下記のリンクからご覧ください。
「備中松山城のみどころ」を下記のリンクからご覧ください。
④備中松山城 厩曲輪(うまやくるわ)
荷馬を繋いでいた厩曲輪で、現在で言えば駐車場にあたる場所です。
⑤備中松山城 御膳棚(ごぜんだな)
左側の建物は、現在はトイレになっておりますが、かってはこの場所で食事を作っておりました。
⑥備中松山城 二の丸
二の丸からは天守や本丸の風景が見えます。二の丸広場は広くて、休憩やお弁当を食べるのに最適な場所で、記念撮影にもお勧めです。
⑦備中松山城 本丸からの天守
標高430m、最も高い場所に天守が現存する山城です。
二層二階の典型的な山城ですが、三層見えるようにデザインされています。籠城戦(ろうじょうせん)を想定し囲炉裏(いろり)や装束の間(しょうぞくのま)が設けられており、二階には御社檀(神棚)があるのが特徴です。
二層二階の典型的な山城ですが、三層見えるようにデザインされています。籠城戦(ろうじょうせん)を想定し囲炉裏(いろり)や装束の間(しょうぞくのま)が設けられており、二階には御社檀(神棚)があるのが特徴です。
⑧備中松山城 巨大な岩盤の上に立つ天守
巨大な岩盤の上に天守が立っています。この姿に、力強さや歴史を感じました。
なぜ、このように美しい天守などが残ったのでしょう?
慶応4年(1868年)、戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった山田方谷の努力で無血開城しました。明治6年(1873年)、廃城令が出された時に新政府によって商家に売却されました。
その後、荒廃しますが、昭和12年(1937年)「高梁保勝会」が結成されて、地元の高梁の方々の努力により、「昭和の大修理」が行われました。天守内の解説パネルには、小学校高学年生徒・中学校生徒・女学校生徒により、約2万枚の瓦が麓から山頂まで担ぎ上げている写真がありました。
なぜ、このように美しい天守などが残ったのでしょう?
慶応4年(1868年)、戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった山田方谷の努力で無血開城しました。明治6年(1873年)、廃城令が出された時に新政府によって商家に売却されました。
その後、荒廃しますが、昭和12年(1937年)「高梁保勝会」が結成されて、地元の高梁の方々の努力により、「昭和の大修理」が行われました。天守内の解説パネルには、小学校高学年生徒・中学校生徒・女学校生徒により、約2万枚の瓦が麓から山頂まで担ぎ上げている写真がありました。
⑨備中松山城 天守の二階風景
天守の二階には、神棚があります。宝剣の説明などが、解説パネルで分かりやすく説明されています。
「発掘調査報告書」(PDF)を下記のリンクからご覧いただけます。
「発掘調査報告書」(PDF)を下記のリンクからご覧いただけます。
⑩備中松山城 天守の狭間(ざま)
敵兵を攻撃するための鉄砲・弓用の穴で、敵の攻撃を防ぐため外側はなるべく小さな穴でなければなりません。壁が厚いため、小さな穴では内側からは敵が見えず、鉄砲や矢の方向が定められないので、内側を広くして見える範囲を広くする工夫をしています。正方形のものを鉄砲狭間または筒狭間、長方形のものを弓狭間または矢狭間と言います。
⑪備中松山城 天守右側と二重櫓(にじゅうやぐら)
天守右側から見た風景です。天守の石垣が美しく、基礎となるしっかりした岩盤も見えます。
奥には二重櫓が見えており、右側の通路を行きますと二重櫓にたどり着きます。
奥には二重櫓が見えており、右側の通路を行きますと二重櫓にたどり着きます。
⑫備中松山城 二重櫓(にじゅうやぐら)
天守の北側の岩盤の上に造られた二重櫓です。天然の岩盤の上に石垣を築き建てられており、山城の特徴がよく表れています。通常、出入口は1つですが、この二重櫓には表と裏に出入口があります。
二重櫓も国指定重要文化財です。
二重櫓も国指定重要文化財です。
⑬備中松山城 本丸の城壁
本丸を出て、二の丸の東側を進んでゆくと、素晴らしい石垣と土塀が現れます。石垣から伸びた木々にも歴史を感じます。
この風景も、NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像で使われました。詳細は下記のリンクをご覧ください。
この風景も、NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像で使われました。詳細は下記のリンクをご覧ください。
⑭備中松山城 二重櫓の裏側
さらに小道を進みますと、二重櫓の裏側にたどり着きます。ここから天守方向に振り返った風景も圧巻です。






















































