旧閑谷学校の見どころは? 国宝の講堂以外も大満喫

備前焼の瓦や国宝である講堂のほか、たくさんの見どころがある旧閑谷学校(きゅうしずたにがっこう)。
創立者・池田光政の教育への熱い思いと、天才技師と呼ばれた津田永忠の技巧が随所に見られます。
初めてじっくりと旧閑谷学校を訪れ、「こんなにすごい歴史と技が詰まっていたのか!」と感動しました。旧閑谷学校は、ほぼ装飾がなく、外にすごさを見せない奥ゆかしい建築美を持つそうです。
今回は、ただ訪れるだけではわかりづらい、旧閑谷学校の魅力を大満喫できる巡り方を紹介します。
掲載日:2022年11月18日
  • ライター:m.k
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旧閑谷学校について

1670年に岡山藩主・池田光政が日本初の「庶民のための公立学校」として創立しました。
現存する世界最古の庶民のための公立学校で、武士も農民も学べる学校だったのです。
池田光政は、この学校の「永続」を願うほど、教育に思い入れがありました。
その熱意を具現化し、堅固かつ壮麗な学校を完成させたのが、家臣である津田永忠です。
現在目にする閑谷学校の全容が整ったのは、創立から約30年後の1701年。300年の時を経てもなお、美しさ・堅牢さを保ち続けています。
学校としては、江戸時代、多くの地域リーダーを輩出したあと、明治以降は閑谷精舎・閑谷黌(こう)・岡山県閑谷中学校・岡山県立閑谷高等学校・岡山県立和気高等学校閑谷校舎と変遷し、1964年(昭和39年)まで実際に生徒が通う学び舎でした。

まずは資料館へ

山中の静かな谷にある旧閑谷学校。石塀の内側、受付から先に入るには入場料がかかります(大人400円、小・中学生100円、65歳以上200円)。
旧閑谷学校を大満喫するには、入場手続きを終えたあと、一番奥にある資料館に向かうのがおすすめです。
講堂を過ぎ、長い石塀沿いを歩くと洋館が現れます。
1905年(明治38年)、私立中学閑谷黌の本館として建設された建物で、現在は資料館として公開されています。
ちなみに江戸時代には、このあたりに生徒たちが生活する「学房」があったそうです。
各部屋には旧閑谷学校の貴重な資料が展示されています。
ここで旧閑谷学校について予習してから各スポットを巡ると、建築に詳しくない人でも旧閑谷学校のすごさがより理解できるのでおすすめです。
建物の撮影はOKですが、資料の撮影はNGとなっています。

石塀

学校全体を取り囲む、765mにも及ぶかまぼこ型の石塀。
300年経っても、石の隙間はほとんどなく、雑草が生えないくらいきっちりと作られています。
中には割栗石という細かく砕いた石が入っており、入れる前にその石を洗うことで、種などが混ざってしまわないよう手間をかけているのだとか。
いかにして学校を「永続」させるか、工夫の表れなのです。
また、石塀の外よりも内が高くなっており、外からは見えずらく、内からは外が見えやすい構造になっています。
生徒たちは開放的な空間の中でびのびと学べるようになっているのです。

火除山(ひよけやま)

資料館を見学したあとは、講堂方面に歩きましょう。
火除山というこんもりとした部分に注目です。名前の通り、学校を火災から防ぐための人工の山。
生徒たちが生活していた学房で実際に火災があった際、火除山のおかげで講堂までは被害が及ばなかったのだとか。

飲室門・公門・校門の違い

旧閑谷学校には複数の門があります。
飲室門は、生徒たちが使っていた通用門。
公門は藩主が訪れたときに使用していた門で、御成門(おなりもん)ともいいます。
校門は「鶴鳴門(かくめいもん)」ともよばれ、正門です。屋根は備前焼の本瓦葺きで、しゃちほこが佇んでいます。
両脇の花頭窓がある部分は部屋になっており、中国の建築様式を模しているそうです。
校門の先には、校内でもっとも重要な場所と考えられている聖廟(せいびょう)が見えます。

国宝・講堂

いよいよ国宝となっている講堂へ。
創建当時は「茅葺き」でしたが、その後改築され備前焼瓦に葺き替えられました。
一般的に瓦を固定するためには壁土が使われますが、この屋根には使われていません。
平瓦・丸い瓦・木材を組み合わせることで固定し、地震や雨風にも負けない堅牢な造りにしたのです。
内室は10本の丸い柱で支えられています。
丸太は中心がねじれやすいそうで、柱は太い丸太を4つに切って使うことで、ねじれやすい部分を避けているのだとか。
学校を「永続」させるために、さまざまな技巧が施されています。
拭き漆の床はピカピカ。300年前から生徒たちが磨き上げてきたことが伝わってきます。
​私が訪れたときは、内室には入れませんでしたが、内室の四方を囲む入側(通路)は歩くことができました。
講堂の近くにある小さな部屋「小斎(しょうさい)」は、藩主が訪れた際に使用していた部屋です。
生徒たちが学んでいる様子がよく見えそうな位置にあります。
講堂から繋がっているのが、習芸斎(しゅうげいさい)と飲室(いんしつ)です。
習芸斎は教室として使われた場所です。
飲室は教師や生徒が休憩していた部屋で、中央に炉がありました。

聖廟(せいびょう)と閑谷神社

聖廟は儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設とされており、そのため、校内の敷地で一番高い場所に配置されています。
奥の大成殿には孔子像が安置されているそう。今でも毎年10月には「釈菜(せきさい)」の儀式が行われています。
聖廟前に植えられた2本の楷の木は「学問の木」とも呼ばれ、秋には美しく紅葉します。
私が訪れたときはちょうど落葉の頃でしたが存在感がありました。
聖廟の隣、少し低い所にあるのが閑谷神社で、閑谷学校の創始者、池田光政を祀っています。
校内の敷地に神社を作ることで、簡単には学校をなくせないように工夫したといい伝えられています。

津田永忠宅跡と黄葉亭(こうようてい)

旧閑谷学校から約500m離れた津田永忠宅跡と黄葉亭まで歩いてみました。
津田永忠宅跡には、今は建物はありません。ここで暮らしながら、永遠に残る学校を作るべく奮闘したのかと感慨深くなりました。
人生をかける大事業のうちのひとつだったことでしょう。
津田永忠は閑谷学校の建設のほかにも、後楽園の造営、百間川の開削や沖新田の開発などを手掛けた人です。
その先にある黄葉亭は、小川のほとりにあるお茶室です。
来客の接待や教員・生徒の憩いの茶室として建てられたそうです。
ちょうど紅葉がきれいでした。

池田光政の志と津田永忠の技

池田光政は、8歳という若さで姫路藩主となり、鳥取藩主を経て、23歳で岡山藩主となりました。
世の中をどう治めるか考え悩み、眠れない日が続くこともあったそうです。
そんなときに、儒学と出会い、心のよりどころとなりました。
以後、人の知恵や教育の力を信じ、人材を育てることで豊かな地を築こうと、教育に力を入れたのです。
そんな池田光政の志と、その思いをしっかりと建築として表現した津田永忠の技を目にすることができるのが、旧閑谷学校の見どころだと感じました。
ぜひ資料館からじっくりと見学してみてください。
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